目前分類:未分類文章 (564)

瀏覽方式: 標題列表 簡短摘要
 先頃、私が入獄中、種々の神秘な事があったが、時期の関係上全部知らせる訳にはゆかないから、追々知らせるとして、今はただ一つだけの事をかいてみよう。

 忘れもしない、今度の事件で留置されたのは、昭和二十五年五月二十九日であったが、間もなく留置所にいるのは十八日間という神様からのお知らせがあった。

それは数えてみると六月十五日までとなる。ところが当日の二、三日前くらいから一大神秘が起った。

これもある程度以上は知らせられないから、その中の差支えない部分だけここにかいてみるが、確か六月十三日であった。朝から何となく腹が痛いので、そのままにしていたところ、午後になると下腹部一面が猛烈な痛みとなって来た。

多分急性腹膜炎だろうと思ったのは、何しろ私の身体も、昔の薬毒がまだ相当残っていたから、その塊が溶けはじめたに違いないと思って、自分で浄霊したところ、どうやら我慢出来る程度にはなったが、まだ何となく気持の悪い痛みが続いた。

いつもなら二、三十分も浄霊すれば治ってしまうのに、この時ばかりは半日経っても、一日経ってもすっきりしない。

とうとう一晩中大した程でもないが、痛み通しで翌朝になってしまった。

そこで私も不思議にたえず、神様のお知らせを仰ぐと、これは大きい御経綸のためで、止むを得ないのだから、少しの間我慢せよとの事なので、どうしようもなかった。

と共に「そうだ」翌六月十五日はちょうど十八日目に当る。

しかも、私の著書にもある通り、昼の世界になる黎明の第一歩が、昭和六年六月十五日である。としたらこれに関連があるに違いない、つまり腹の中を充分清掃するための準備的浄化、という訳がハッキリ判った。

 しかも、面白い事には、十四日の朝素晴らしい神夢を見た。

それは雪のある富士山の頂上に登ったところ、そこに大して大きくもない宮殿風の家があるので、その家へ入り、座って辺りの雪景色を見ようとすると、目が醒めてしまった。

と同時に私は今までにない感激を覚えた。

何しろ昔から、一富士、二鷹、三茄子と言ってこの三つのどの夢をみても、非常に縁起がいいとされているからで、しかも一番好い富士山の夢で、その頂上にまで登ったのだから、恐らくこれくらいいい夢はあるまい。

私が六十七歳の今日まで、こんな素晴しい夢は見た事がない。という訳で嬉しさが込み上げてくる。そのため少し残っていた腹の痛みもどこへやら忘れてしまった程だ。

 いよいよ、六月十五日となった。

すると朝まだき、今日の重大な意義がハッキリして来た。

というのは以前かいた著書に、私のお腹の中に光の玉があるという事で、これを読んだ人は知っているだろうが、この光の玉には今まで魂がなかった。

ところがいよいよ今日○から○ったある高位の神様の魂が宿られた、すなわち右の御魂が現世に生誕された事になるのである。これからこの神御魂(かむみたま)が段々御育ちになり、成人されるに従って、玉の光は漸次輝きを増し、将来大偉徳を発揮さるるに到るのである。

 そうして面白い事には、翌十六日には朝から食欲が全然ない。

やっと昼頃になって牛乳だけが欲しくなったので、差入屋に頼んで取寄せ、コップに一杯呑んだが、その美味さは格別だった。

その時なるほどと思った事は生まれたばかりの赤ン坊だから、乳が呑みたいのは当り前で、確かにこれが型なんだ。

という訳でいよいよ大経綸の第一歩を踏み出す時となったのである。

すなわち花が散って実を結ぶという、その実の種の中心のポチが、腹の中へ宿ったので、実に人類始まって以来の大慶事である。

ところがこのような万人祝福すべき空前の重要神業が、一人の部下もいない陰惨なる牢獄内で行われたという事は、何たる皮肉ではなかろうかと、私はつくづくおもわれたのである。

この一事によってみても、神様の経綸なるものは、いかに深遠微妙にして、人智を許さないものたる事を知るであろう。

この前後の経路は法難手記にあるからここでは略す事とする。

『栄光』83号、昭和25(1950)年12月20日発行

joan369 發表在 痞客邦 留言(1) 人氣()

(三)以前私は、宗教が当局から圧迫された時代、やむを得ず民間治療を行なった事があった。

その際衣服を脱がせて患部を治療したのである。
その頃腰部から腹へかけて、蛇の鱗のごとき斑点があり、赤色あるいは薄黒色の人をたびたび見た事がある。これは蛇が人間に転生したもので、その鱗の形が残存している訳である。

 また色盲という病気は動物霊の転生であって、その動物の特異質が残存しているためである。
すべて動物の眼は物体が単色に見えるもので、ちょうど動物の音声が一種または二種ぐらいの単音である事と同一である。

 その他多数の実例があるけれど略すが、すべて転生の場合、残存せる動物霊の性能が多分にあるものである。

そうして動物に人語を解するのと解せないのとがあるが、人語を解せないのは純粋の動物である。

猫や蛇を殺したりすると祟るというが、これは人間が転落し再生した動物であるからで、そうでないのは祟るような事はない。

よく田舎など青大将がふるくからいるが、これは祖先が蛇となってその家を守護しているので、こういう蛇を殺すと必ず祟って、次々に死人が出来たり、甚だしきは家が断絶する事さえある。

それは折角守護していた祖霊を殺したため、非常に立腹するからである。

そうして、人間性のうち執着が蛇霊となり、偽りを好み人を騙したりする結果は狐霊となるのである。一旦畜生道へ落ちて転生しても、その一代はあまり幸福ではない。特に女性の独身者の多くはそれである。

 今一つおもしろい事がある。旅行の時など特に親しみのある場所があるが、それは前生においてその付近に居住または滞在した事のあるためである。

また他人であって親子兄弟よりも親しめる人がある。それらも前世において親子、兄弟、主従、親友等であったからで、因縁とはこの事を指して言ったものである。

それと反対にどうしても親しめなかったり、不快を感ずる人は、前世において仲が悪かったり苦しめられたりしたためである。

また古(いにしえ)の偉人英雄や武将等で、特に崇拝する人物があるが、これらも前世において自分が臣下や部下であったためである。

また熱烈な恋愛に陥る男女の場合、これは前世において、相愛しながら恋愛が成立しなかった男女が、たまたま今生において相知り、その時の執着が強く霊魂に沁み付いているため、目的を達して喜びのあまり夢中となるのであるが、これらは当人自身でも不可解と思う程情熱が燃え上がるものである。

また男女共独身を通す者があるが、これは前生において男女関係が原因で、刑罰や災害等により生命を奪われる際、悔恨の情にたえず、男女関係に恐怖を抱いたためにほかならないのである。

 その他水を恐れたり、高所を恐れたり、人混みを恐れたり、またはある種の獣類、虫類等を恐れたりする人は、右の原因による死のためである。

以前こういう例があった。その人は人のいない場所をおそれ、一人もいなくなると恐怖に我慢が出来ず往来へ飛び出し、家人の帰宅するまで家に入らないのである。

これは前生において急病等のため、人を呼びたくも誰もおらず、そのまま死んでしまったためで、その霊が再生したからである。

『信仰雑話』P.104、昭和23(1948)年9月5日発行

joan369 發表在 痞客邦 留言(0) 人氣()

 人間生まれながらにして賢愚があるのは、いかなる訳であろうか。

これについて解説してみよう。それについて前もって知らなければならない事は、人間は一度は必ず死ぬが、死とは何ぞやという事である。

死とは実は老廃したり、大負傷したり、病気の為衰弱したりして、その肉体が使用に堪えなくなったために、霊魂がその肉体を捨てて霊界へ往き、数年、数十年、数百年にわたって浄化作用が行なわれる。

それは現界における生存中に、いかなる者といえども相当の罪穢を犯し、それが溜まっているので、ちょうど長く清掃をしない家や衣服と同様であって、浄化された霊から再生する訳は前項(霊線について)に述べた通りであり、もちろん人間の霊には再生が多いが、新生の霊もある。

この新生の霊は霊界における生殖作用によるのであって、これは現界の生殖作用と異なり神秘極まるようである。

かくのごとく再生の霊と新生の霊とがあり、新生の霊は人間としての経験が乏しいため、どうしても幼稚であるに対し、再生霊に至っては、人間としての経験を積んでいるため賢い訳であるから、再生の度数の多い程賢く、偉大なる人物は最も古い霊魂という訳である。

 次に転生というのがある。

仏教に輪廻転生という言葉があるが、この事である。
これは人間が生存中に犯した罪が重い場合、畜生に生まれる。

すなわち狐、狸、猫、犬、蛇、蛙、鳥等が主なるもので、多くの種類がある。
なぜ畜生道へ堕ちるかというと、生前の想念と行ないが人間以下に堕落し、畜生同様になったからである。

こういう事をいうと、現代人はとかく信じ難いであろうが、私は二十数年にわたり、無数の経験によって動かすべからざる断定を得たのである。

 その中で二、三の実例を書いてみよう。

(一)某家に長年飼われているかなり大きな犬があった。家人いわく「この犬は不思議な犬で、座敷にいて決して地面へ降りようとしない。

使用人が呼んでも行かない。すべて家族の者でなくては言う事を聞かないばかりか、絹布の座布団でなくては座らないし、座敷も一番良いのを好み、食事も贅沢好みで、人間と同じでなくては気に入らないのです。

これはどういう訳でしょう」ときくので、私は――「この犬はあなたの家の祖先が畜生道へ堕ち、犬に生まれたのです。
従ってあなた方を自分より下に見ており、自分は家長の気持でいるのです」と答えたので納得がいった。

(二)六十歳くらいの老婆、狐霊が二、三十匹憑依し、それが豆粒大の大きさで身体中におり、特に腋下に多くいた。

私がその豆粒へ指の先から霊射をすると非常に苦しむ。
その際老婆の口から「痛い、いたい苦しい、助けてくれ。今出る、出るから勘忍してくれ」というような事をわめくと共に、豆粒は順々に消え去るが、数時間経つとまた集まってくる。

これはいかなる訳かというと、その老婆は前生において女郎屋の主人であって、その時傭った多くの女郎が畜生道に落ち、狐霊となって、復讐せんと、老婆を苦しめているのである。

ある時は「老婆の生命を奪る」と狐霊が囁(ささや)き、心臓部の下を非常に痛めたり、ある時は食事半ばにして食道を締めつけ、飯を通らなくしたり、ある時は一日くらい尿を止める等、種々のいたずらをするが、その都度私は霊射し治癒させたのである。

『信仰雑話』P.104、昭和23(1948)年9月5日発行

joan369 發表在 痞客邦 留言(0) 人氣()

キリストにサタン、
釈迦に提婆は、
誰も知っているところであるが、
吾々と雖も、
サタンや提婆がつねに根気よく狙っている。

面白いことには、
時期の切迫につれ、
彼ら邪神は愈々躍起となって、
昨今は獅子奮迅の勢で活躍していることで、
本紙にも近ごろ、
目立って掲載されているから知らるるであろう。

これらによってみても、
邪神の運命の最早目睫に迫っていることが、
想察さるるのである。

ということは、
キリストの言った、
最後の世の前夜ともいうべき今である。

任何人都知道,
對於基督而言有撒旦,
對於釋迦而言有提婆;
即使是我們每一個人,
撒旦和提婆經常耐心地盯著不放。

有趣的是,
隨著時機的逼近,
那些邪神越來越急躁,
似乎以勇猛奮鬥之勢大顯身手。

最近,
本報非常醒目地刊載如此的內容。

你們大概知道吧!
由此可知,
邪神的命運已經危在旦夕。

現在可說是__
基督所謂的「最後之世的前夕」。

〈邪神的沒落〉(1949年11月20日)

joan369 發表在 痞客邦 留言(0) 人氣()

吾々は
今人類救済の大目的の下に
身命を賭して奮励努力しつつある、
今日の末期的暗澹(あんたん)たる
この世界に対し
神命のままに
救世の業を行いつつあるのである、
とはいうものの
いまだ吾らの仕事は僅かに日本国内に限られており
世界人類にまで及ぶのは
前途遼遠の感もなきにしも非ずである、
そうして
日本において今本教によって
救われつつある人々は日に月に漸増しつつあり、
決定的死の運命に晒されたるものが
たちまちにして更生の歓びに浸るものや、
病貧争の三災苦の渦に捲込まれている家庭が
全く解決されて歓喜の生活に入った人達、
懐疑の衢(ちまた)に彷徨(ほうこう)しつつ
危うくこの世を見限ろうとした青年男女、
科学に哲学に宗教に確乎たる信念を得ようとしても、
真に満足を与えられるものがないので
混迷裡に悩んでいた者が
本教を知ってから真の安心立命を得たり、
神示の耕作を知って
無肥料栽培を実行し、
多収穫を挙げ歓喜する農民達、
これら真の幸福を得て
感謝の生活裡の人となった
その数は幾何(いくばく)の数に上るか、
測り知れないものがある。

以上は極大雑把ではあるが
これを読んだ人達は
大体の予想はつくであろう、
このような大いなる救いの力の顕現は
何人といえども夢想だもしなかったところであると共に、
この救いの業は
何によるのであろうか、
全く偉大なる神の力でなくて何であろう、
ところが唯物主義者等は
この吾々の聖業を目して
迷信邪教といい、
吾々の仕事を極力妨害しようとし
それが社会に貢献する善事と誤解しているのであるから、
彼らの見当違いたるや迷惑の外はないのである、
これらによる影響は
ともすれば世人に疑惑を起させ、
常に吾らに対し不快なる注目をなし、
悪宣伝する者も絶えないのである。

吾々は常に思っている、
今現に行いつつある本教の仕事程、
日本の復興に援助を与え
社会人類の福祉を増進するに役立っているかは
想像も出来ない程であろう、
とはいうものの翻(ひるがえ)って
顧みれば今日までの数多き宗教、
尊敬すべき義人聖者も事業も、
いつとはなしに
消滅したものが多く
今もなお存続しているものは
特に優秀なる価値あるもののみであるからである、
もちろんその間迷信邪教の類も少なからず
現われはしたが、
社会に益するよりも
害を与える方が多いと思わるるものは
自然淘汰された事はもちろんである、
ゆえに新宗教でありさえすれば
一応は迷信邪教視するのは無理もないが、
誤謬は誤謬で、
これがため多くの救わるべき運命にある小羊が、
そのため犠牲になるという事は、
やはり大きな罪を構成する事になるのは当然である、
この意味において
誤解者をして
一日も早く
蒙(もう)を啓かせなければならないと思うのである。

『光』15号、昭和24(1949)年6月30日発行

joan369 發表在 痞客邦 留言(0) 人氣()

ここで悪と文化の関係についてもかいてみるが、そもそも文化なるものの発生原理はどこにあったかというと、古(いにし)えの野蛮未開時代強者が弱者を圧迫し、自由を奪い、掠奪殺人等思うがままに振舞う結果、弱者にあってはそれを防止すべく種々の防禦法を講じた。

武器は固より垣を作り、交通を便にする等、集団的にも個人的にも、あらゆる工夫を凝らし努力したのであった。これが人智を進めるに役立った事はもちろんであろう。

またその後に到って安全確保のため、集団的契約を結んだのが、今日の国際条約の嚆矢(こうし)であろうし、社会的には悪を制禦するに法のごときものを作り、これが条文化したのが今日の法律であろう。ところが現実はそんな生易しい事では、人間から悪を除く事は到底出来なかったのである。

これによってみても人類は原始時代から悪を防止する善との闘争は絶える事なく続いて来たのであるから、何と不幸な人類世界であったであろうか、このためいかに大多数の善人が犠牲にされたかは誰も知る通りである。

そこでそれらの悩みを救おうとして、時々現れたのが彼の宗教的偉人であった。というのは弱者は常に強者から苦しめられ通しでありながら、防止の力が弱いので、せめて精神的なりとも不安を無くし希望を持たせると共に、悪に対しては因果の理を説き、悔い改めさせようとしたので、多少の効果はあったが、大勢はどうする事も出来なかった。

ところが一方唯物的には悪による不幸を防止せんとして学問を作り物質文化を形成し、この進歩によって目的を達しようとしたのであるが、この文化は予期以上に進歩発展はしたが、最初の目的である悪を防止するには役立たないばかりか、反って悪の方でそれを利用してしまい、益々大仕掛な残虐性を発揮するようになったのである。

これが戦争を大規模にさせる原因となり、ついには原子爆弾のごとき恐怖的怪物さえ生まれてしまったのであるから、こうなっては最早戦争不可能の時代となったといえよう。これを忌憚なくいえば悪によって物質文化が発達し、悪によって戦争不可能の時代を作ったので、まことに皮肉な話である。

もちろんその根本には深遠なる神の経綸があるからで、この点よく窺われるのである。そうして精神文化の側にある人も、物質文化の側にある人も共に平和幸福なる理想世界を念願しているのはもちろんであるが、それは理想のみであって現実が仲々伴わないので、識者は常に疑問の雲に閉され、壁に突当っているのが現状である。

中には宗教に求め哲学等によってこの謎を解こうとするが、大部分は科学の進歩によってのみ解決されると確信している。しかしそれも確実の見透しもつかないで、未解のまま人類は苦悩を続けているのである。としたら世界の将来は果してどうなるかという事を、私はこれから徹底的に説いてみようと思うのである。
 
前記のごとく悪なるものが、人類不幸の根本原因であるとしたら、なぜ神は悪を作られたかという疑問が湧くであろう。これが今日まで最も人間の心を悩ました問題である。

ところが神はついにこの真相を明らかにされたのでここに発表するのである。まず第一今日までなぜ悪が必要であったかという事である。

というのは悪と善との争闘によって、現在のごとく物質文化は進歩発達し来ったという何と意外な理由ではないか。ところがこのような夢想だも出来ない事が実は真理であったのである。

それについてはまず戦争である。戦争が多数の人命を奪い、悲惨極まるものなるがゆえに、人間は最もこれを恐れ、この災害から免れようとして最大級の智能を絞り、工夫に工夫を凝らしたのでこの事が、いかに文化の進歩に拍車をかけたかは言うまでもない。

何よりも戦争後勝った国でも負けた国でも、文化の飛躍的発展は歴史がよく示しているからである。しかしながら戦争が極端にまで進み、長く続くとなれば、国家は滅亡の外なく、文化の破壊ともなる以上、神はある程度に止め、また元の平和に立ち還えらすので、このように戦争と平和は交互に続いて来たのが、世界歴史の姿である。

また社会を見てもそうであり犯罪者と取締当局とは常に智慧比べをしているし、個人同士のゴタゴタもその因は善と悪との争いからであって、これらの解決が人智を進める要素ともなっているのは分るであろう。
 
このように善悪の摩擦によって、文化が進歩するとすれば、今日までは悪も大いに必要であった訳である。しかしながらこの悪の必要は決して無限ではなく限度がある事を知らねばならない。

これについては順次説いてゆくが、まず肝腎なことは、この世界の主宰者たる主神の御目的である。これを哲学的に言えば絶対者と、そうして宇宙意志である。

彼のキリスト始め各宗教の開祖が予言されたところの世界の終末であるが、これも実は悪の世の終末の事であったのである。

そうして次に来るべきものが理想世界であって、病貧争絶無の地上天国、真善美の世界、ミロクの世等々、名は異なるが意味は一つである。というようにこれ程の素晴しい世界を作るとしたら、それ相応の準備が必要である。

準備とは精神物質共に、右の世界を形成するに足るだけの条件の完備である。それに対して神の経綸は物質面を先にされた事である。というのは精神面の方は時を要せず、一挙に引上げられるが、物質面の方はそうはゆかない。

非常に歳月を要するのはもちろんであるからである。しかもその条件としてまず第一に神仏の実在を無視させ、人間の精神を物質面に集中させた事で、その意味で生まれたものが彼の無神論である。

というように悪を作るには無神論こそ最も根本的であるからである。かくして勢を得た悪は益々善を苦しめ、争闘を続け人間をして苦悩のドン底に陥らしめたので、人間は常に這上ろうとしてあがいている。

これが文化の進歩に大いなる推進力となったのはもちろんで、悲惨ではあるが止むを得なかったのである。

以上によって善悪についての根本義は分ったであろうが、前記のごとくいよいよ悪不要の時が来たと共にそれが今日であるから容易ならぬ問題である。

しかしこれは臆測でも希望でもない、現実であって、信ずると信ぜざるとにかかわらず、それが最早人の眼に触れかけている。すなわち原子科学の素晴しい進歩である。

従ってもし戦争が始まるとしたら、今度は戦争ではなく、一切の破壊であり、人類の破滅であるが、これも実は悪の輪止まりであるからむしろ喜んでいいのである。

しかもこの結果今日まで悪が利用して来た文化は一転して善の自由となり、ここに待望の地上天国は生まれる段階となるのである。

joan369 發表在 痞客邦 留言(0) 人氣()

  • 這是一篇加密文章,請輸入密碼
  • 密碼提示:
  • 請輸入密碼:
 昔から六韜三略(りくとうさんりゃく)の巻という言葉があるが、これには非常に神秘があって、この謎を解く人は今までなかったようである。

 これを私からいえば、よく絵や彫刻にある観音様の御手に持たれている巻物に当る訳で、これを持経観音の御名で古くから伝えられているが、実は御経ではなく右のごとき神秘貴重なものである、何となれば御経のかいた巻物などは、昔からどこにもあるのでそのように人間の手に持たれるようなものを、観音様とも云われる尊い御方が手にされるはずのない事は判りきった話である。

 これは全く、仏滅後ミロクの世を御造りになる大経綸の、深い仕組をかかれたものに違いなく、その文字はミロクの神様の御神示をかかれたものであって、これこそ私が現在実行しつつある、多種多様の神業のプログラムで、私が見真実になった時、すでに明(あか)されたものである。

 それについて、まず文字の意味からかいてみるが六踏(支那では六韜とかくが、この意味は六つの兵法という事になっているが、私は特に踏の字を用いたのである)とは六合(りくごう)の意味も含まれているがそれは別として、ここでは分り易く示してみれば、六の文字はいつもいう通り月であり、水であり、五六七(みろく)の真中であって、ちょうど現在の世界、つまり夜の世界で、これを踏んで立つという意味である、三略とは三つの計略ではなく、三つの経綸である。

 すなわち五・六・七、三・六・九、上・中・下、経(たて)・緯(よこ)・伊都能売(いずのめ)という訳である。
 この事について、私は面白い事をかいてみるが、歌舞伎劇中の九代目団十郎の当り狂言であった歌舞伎十八番の中の、菊畑(きくばたけ)一名鬼一法眼(きいちほうげん)三略の巻というのがある、これは有名だから大抵の人は知っているであろうが。
 まだ見ない人のためにザットかいてみよう、彼の鬼界ケ島へ流された源家の重将俊寛が、島を脱出して窃(ひそ)かに京に上り、身を変じて軍略の指南をしていたところ、相当世に認められるようになったので、平家から招かれ、今でいう参謀格となって仕えていたのである。
 ところがたまたま牛若丸が虎蔵という偽名を使って奉公に入り込み、軍略を教わりながら豆々しく働いていた、その時牛若丸は一人の智恵内という家来を連れ、智恵内を下男とならせ共に仕えていたが、鬼一法眼に一人の息女があった、名を皆鶴姫といい、どちらも美貌であったからでもあろう、御定まりの恋仲になってしまったのである、そこで牛若丸はかねての熱望していた六踏三略の巻が、法眼の家の土蔵の中に隠されてあるのを知り、皆鶴姫にむかって盗み出すよう頼んだところ、何しろ恋しい男の切なる希望とて、喜んで窃(ひそ)かに土蔵の中から持出して、牛若丸に渡したのである。

 ところがこれには深い意味があったのだ、それは元々鬼一法眼には深い思慮があった事とて、虎蔵の行動を知りながら見て見ぬ振りして、ワザと盗み出さしたのであった、というのは法眼の腹の中は、どこまでも源家再興にあったからである。

 という訳でこの法眼の深い心持を、団十郎の腹芸的所作(しょさ)でやったのだから、何ともいえない深みのある至芸で今なお私の頭に残っている、劇の内容はそれだけであるが、これを宗教的にみると、仲々神秘が潜んでいるので、それを今かいてみるが。

 私がいつもいう通り、義経は観音様の化身であったのである、以前私のかいた中に、艮(うしとら)の金神(こんじん)、国常立尊(くにとこたちのみこと)という神様が神代の時御隠退せられ、霊界においては閻魔大王となり、現界においては観世音菩薩と化現され、慈悲を垂れ給い、一切衆生を救われたのである。

 そういう訳で牛若丸の虎蔵とはすなわち艮で金神様の御名を秘されたものである、そうして鬼一法眼は伊邪那岐(いざなぎの)尊の御役をされたのである、鬼は岐であり、一は神の意味であるからである。

 これについて以前私は義経に生まれ変ったのだと話した事があるが右の意味にも表われているであろう、従って今日といえども伊邪那岐尊様から随分色々な事に御援けを蒙っているのでこれについての面白い話もあるが、いずれ機を見てかく事とする。

『栄光』119号、昭和26(1951)年8月29日発行

joan369 發表在 痞客邦 留言(0) 人氣()

由来(もとより)、
昔から宗教なるものは、
絶対無抵抗主義を基本として発達して来たものであって、
彼の世界的大宗教の開祖キリストさえ
“右の頬を打たれれば、左の頬を打たせよ”と言われた事や、
またキリスト自身がゴルゴタの丘において、
十字架に懸けられた際、
隣の柱に縛られていた一人の泥棒があったが、
彼はキリストにいった
“オイ、イエスよ、お前は先程から何か口の中で唱えながら、
悲しそうな面をしているが多分お前を罪人にした奴が憎いので、
呪っていたのであろう”
すると
キリストは“イヤ、
そうじゃない、俺は俺を讒言(ざんげん)した人間の罪を、
赦されたいと父なる神に祈っていたんだ”と言ったので、
泥棒は唖然とした
という有名な話があるが、
これらをみても、
キリストはいかに大きな、
愛の権化であったかが判るのである。

また、
釈尊にしても、
提婆(だいば)の執拗なあらゆる妨害に対して、
仏道修行と解釈したのであろう、
何ら抵抗的態度に出なかったようである。

右のごとく二大聖者でさえ、
そのようであったから、
その流れを汲んだ幾多の聖者や開祖も、
そうであったのはまことに明らかである。

ただ一人日蓮のみは反対であって、
彼の燃ゆるがごとき闘争心は、
行過ぎとさえ思われる程であった。
彼の有名な、念仏無間(むげん)、
禅天魔、真言亡国、律(りつ)国賊なるスローガンにみても、
その排他的信念のいかに旺盛であったかは、
吾らといえども、
賛成し兼ねるところである。

以上のごとき例によってみるも、
確かに神の愛、
仏の慈悲は、
人々の心を捉え、
それが敬仰(けいぎょう)の原(もと)となっているのは、
言うまでもないが、
その結果を批判してみると、
一概にはその是非を決めかねる、
というのは、
釈尊やキリスト没後、
二千有余年も経た今日、
なお邪悪は依然として減らないどころか、
むしろ殖える傾向さえ見らるる事である。

善人が悪人に苦しめられ、
正直者は馬鹿をみるというような事実は、
昔から今に至るまで
更に衰える事なく、
文化の進歩と、
この事とは全然無関係であるとさえ思えるのである。

ただ文化の進歩によって、
悪の手段が巧妙になったまでで、
その本質に至っては、
いささかも違うところはない。

現在としては法の制裁の場合、
僅かに暴力が伴わなくなったのみである。
しかしそれだけ事柄によっては、
深刻性が増したとも言えるのである。

それはともかくとして、
なぜ邪悪は根絶しないかという事を、
よく考えてみなくてはならない。

言うまでもなく
その根本は、
善が悪に負けるからである。

それがため悪人はいい事にして、
善人を絶えず苦しめようとする。
何よりも彼ら悪人は、
善人を非常に甘くみる。
想うに彼らの心情は、
善人なんて者は至極愚かで、
意気地なしに決っているとして軽蔑しきっている。

また善人の方でも、
悪人には到底勝てない、
なまじ抵抗などすると、
思いがけない迷惑を蒙(こうむ)ったり、
危害を加えられたりする。

だから温和しく我慢して済ましてしまうに限る。
その方がいくら得だか判らない、
というように諦めてしまう。
そんな訳で悪人は益々つけ上り、
毒牙を磨き法に引っ掛らない限りの、
悪を逞(たくま)しくするという、
これが目下の社会状態である。
 
右に述べたところは、
個人に関したものであるが、
一層怖るべきは、
官憲やジャーナリスト達の悪である。
先頃私が経験した事件によってみてもそうであって、
これは法難手記に詳しくかいてあるから、
読んだ人は判っているであろうが、
官憲が法律という武器を思うまま振り廻して、
武器を持たない人民を苦しめる事である。

何しろ
法の濫用によって、
人民は罪なくして被告にされるのはたまらないから、
彼らの感情に訴え、
少しでも軽くして貰いたいと希(ねが)うのである。

そのような訳で弁護人にしても、
検察官の感情を害しないよう、
心証をよくするようにと、
吾々に対してもよく注意するのである。
また上申書をかく場合といえども、
その文章の中に、
哀訴歎願的言葉を混えなければならないのである。
これらによってみても、
吾々が普段考えていたところの、
司法官は法を重んじ公平なる裁きをするものと、
想像していた事の、
いかに思い違いであった事を知ったのである。
少し言い過ぎかも知れないが調官のやり方を見ると、
法以外自己の面目や感情などが、
割合微妙に働いている事を知ったのである。

次に言いたいのは、ジャーナリスト諸君である。
彼らは独善的判断の下に、
ほとんど傍若無人(ぼうじゃくぶじん)的にかき立てる、
その場合真実と異(ちが)うが異うまいがお構いなしで、
ただ興味本位を中心に、
人に迷惑が掛かろうが、
損害を与えようが一向無関心である。

誰かが言った、
新聞は二十世紀の暴君とは、
満更間違ってはいないように思われる。
常に口には民主主義を唱えながら、
事実は言論の暴力者である、
というその原因は全く言論に対しては、
厳しい制裁がないからであろう。
右のような訳だから、
先年本教が新聞のデマ記事で
度々攻撃を受けた場合「物識(ものしり)というような人々は、
どんな事をかかれても
反抗するのは損だから、
マアー我慢して泣寝入りにした方が得ですよ。
特に大新聞などに逆らうと、
どんな目に遭わされるか判らないから
温和しくするに限りますよ」と
よく注意を受けたものである。

以上、私は個人の場合と、
官憲と新聞との三つをかいたが、
このどれもが悪が善に勝つという見本である。

そんな訳で常に被害者は、
我慢、泣寝入り、損をしたくない等の利害を先にして、
無抵抗に終るのであるから、
彼ら邪悪者は益々跋扈(ばっこ)し、
止どまるところを知らない有様である。

これではせっかくの法があっても、
法としての威力は大いに減殺され、
人民はいつも被害者となるのであるから、
困った社会である、
としたら、いつになったら、
善人が安心して住める世の中になるか、
実に心細い限りである。

ここにおいてたとえ宗教家たる我らといえども、
常に唱えているごとく、
善が悪に負けてはならない。
悪に負ける善は真の善ではなく、
意気地なし以外の何物でもないと、
警告するのである。

特に、彼らが宗教家に対する場合、
どうも普通人と区別して観る。
宗教家は無抵抗主義であるから、
どんなに虐めても大した事はないと、
頭からなめてかかる。

ここに宗教の弱さがある、
というよりも弱いものと決められている事である。

従ってどうしてもこの彼らの、
サタン的観念を払拭(ふっしょく)しなければならないのはもちろんで、
この意味において
大いに悪と戦わねばならない。

何よりも
以前大新聞が本教を旺んに攻撃した時も、
本教は決して恐るる事なく、
飽くまで本教機関紙によって、
彼らの邪悪と戦ったが、
諸君も知っているであろう。

このような訳であるから、
吾らはいかに大なる力を持って
押潰そうとしても、
敢然(かんぜん)として
先方が反省するまで戦うのである。
これが真の神の御意志でなくて何であろう。

従って、
悪は到底善には敵わないから、
悪を捨て善に改める方が得策であると覚らす事で、
これが生きた宗教のあり方であろう。

これを大きく考えてみるとなおよく判る。
彼の米国が武力侵略国に対し、
悪では成功しないという事を覚り、
諦めさせなければ、
世界平和は出現しないとして、
今日国力を傾けて諸国家を援助しているのと、
理屈は同じである。

私はこの主義をもって、
今日まで一貫して来たので、
決して不正には負けない信念である。

一例を挙げてみると、
私が被告になって、
以前から続いている土地問題の係争事件があるが、
驚くなかれ今年でちょうど十四年目になるが、
まだ片がつかない。

何しろ書類を積み重ねた高さが一尺以上あるので、
裁判官が代る毎に、
それを最初から読まなければならないから、
裁判官も辟易(へきえき)してしまい
極力示談を勧めているが、
私は元々不正に対して戦うのだから、
利害は第二として、
先方が自己の非を覚り、
正しい条件を持って来れば直にも応ずるが、
そうでなければ決して和解をしないのである。

以上長々と述べたが、
ここで結論を言えば、
宗教本来の目的は、
善を勧め悪を懲らすにあるのであるから、
決して悪には負けてはならないのである。

何となれば
善が勝っただけは悪が減るのであるから、
それだけ社会はよくなるという訳で、
かくして地上天国は生まれるのである。

(注)
提婆、提婆達多(だいばだった)
 釈迦の従弟。大変有能な人物であったが、逆恨みから釈迦とその教団に執拗な嫌がらせをした。

「悪に勝つ」『栄光』100号、昭和26(1951)年4月18日発行

joan369 發表在 痞客邦 留言(0) 人氣()

キリストはいった。
「人、全世界を贏(う)くとも、
己が生命を損せば何の益あらん。
またその生命の代(しろ)に何を与えんや」とは
宜(むべ)なる哉(かな)である。

実に健康程貴重なものはあるまい。
人生幸福の全部は、
健康の二字に尽きるといってもよかろう。

本教によって
救われたところの幾多の実例は、
本教刊行物に満載されている。
もちろん病気ばかりではない。
危険に直面した災害から救われたり、
貧困が解決されたり、
不幸な人も幸福者になった等々、
感謝感激の報告は机上(きじょう)に山を成している。
 
私が今行いつつある救いの業は、
養成された幾万の弟子にやらせているが、
彼らは日々数え切れない程の奇蹟を表わしている。
その結果としての教線の拡張進展は
世間の問題とされる程に見ても明らかであろう。

人類史上、
古来大宗教家も大聖者も
幾人か表われた事は文献によっても、
現存せる事績によっても
知らるるところであるが、
今私が行っているそれとは
比較にならない程の異(ちが)いさがある。
そうして彼のキリストの再臨も
メシヤの降臨も
弥勒下生(みろくげしょう)も、
転輪(てんりん)菩薩の出現も、
上行(じょうぎょう)菩薩の出生も、
時の問題であろう。
何となれば実現性のない荒唐無稽(こうとうむけい)の予言を、
数百数千年以前からされ給うはずはないからである。

元来、私は大聖者たろうとも、
救世主になろうとも望んだ事はいささかもない。
何となれば
それほどの自分とは思っていなかったからである。

ただ若い頃から人類愛に燃える余り、
宗教人となって
大いに世を救いたいと思っていたばかりである。

ところが宗教界に入りある程度の修行が終った頃、
私は神霊の啓示を受けると共に、
時の推移するまま不思議な事が次々に起って来た。

そうして予想だもしなかった
驚くべき霊力を与えられた事である。
しかも途方もない運命の転換は
私をして驚嘆せずにはおかなかった。
実に奇蹟から奇蹟へと進んでゆく、
これをたとえていえば、
私が何かを冀(こいねが)うと必ずそれが実現する。
私が墨で紙へ文字をかくと
その文字が生きて躍動する。
その紙を畳んでお守として
懐へ入れるとその刹那(せつな)から
気持が明るくなり、
奇蹟が起り始める。
人の病気を治し得る力も発現する。
不幸な境遇の人も漸次好転する。
また私が書いた文字を床へ掛けたり、
額にかけたりするとその文字から光を発し、
肉眼で見る人もよくある。
もちろん家庭も明るくなり、
農家においてはたちまち収穫が増したりして、
家庭は漸次天国化するという実例は
多くの信者達が常に異口同音に唱えるところである。

以上述べたように、
不思議な神業を行わせられる私としては、
救世の大使命を遂行させんがため、
神の代行者としての神護を与えられていると思っている。

従って今後の本教の活動を充分観られん事で、
それをもって批判の的とされたい事である。

以上は、
本教の大体をかいたのであるが、
なお一層深く研究されたい方のために別紙(略)のごとき
一覧表を添えてありますから、
どなたでも気軽くお訪ねになれば
よく教えて呉れます。
また本教刊行の新聞雑誌を初め、
書籍類も当所に種々ありますから、
精々御講読あらん事を御勧めするのであります。

『世界救世教早わかり』昭和25(1950)年11月20日発行

joan369 發表在 痞客邦 留言(0) 人氣()

そもそも、
救世主とは何か、
いうまでもなく文字通り世を救うべき大使命を
負って生れたる大聖者であって、
事実は歴史はじまって以来、
いまだ顕現したる事のないのはもちろんである。

これについて私自身の偽らざる告白を、
赤裸々に露呈し、
現在私が行いつつある聖業について
書いてみようと思うのである。

私というものが
今行いつつある救世的活動は、
人類全体からみれば
何万分の一の小範囲かも知れない。

しかしながら
日に月に救われる人が殖えつつある現状からみて、
将来はいかに大規模に救われるであろうかも
想像され得るのである。

私は見えざる力を盛んに行使している——
というと唯物教育を受けた現代人はそんな馬鹿な事があるかと、
山師的とみるかも知れない。
何となれば
見えざる力などとは余りに非現実的であるからである。
それも無理もないが、
もし真に現実であり、
実証的であるとしたらどうなるであろう。
実に空前の一大センセーションを捲き起さずにはおれないであろう。

私が信徒を介して行う間接的力によって、
絶望と決した難病が治り、
決定的死の運命が復活され、
健康人間として活動されるようになった実例は、
実に今日まで何万何十万を数えるか判らない程である。

古往今来人間の寿齢なるものは
運命のままに委せられ、
文化の進歩も医学の発達も、
こればかりはどうにもならないとされて来た事は言うまでもない。
ところが右に述べたごとく、
人類唯一の欲求たる生命の延長が、
可能となったとしたら、
この実相を把握し、
信じ得る人の歓喜はいかばかりであろうか、
恐らく形容の言葉もないであろう。
しかしこの事実を人の言葉や本教刊行物によって
知ったとしても、
直ちに受け入れられない事は
致し方あるまい。
ある者は迷信とし、
ある者は大山師とみるのもまた当然であろう。

しかしながら精神病者以外、
いかなる人間といえど幸福を冀(こいねが)わぬ者は一人もあるまい。

あらゆる幸福条件が具備されたとしても、
ひとり健康を得ないとしたら、
その幸福は零以外の何物でもない。

joan369 發表在 痞客邦 留言(0) 人氣()

今の世の中で、人々は口を開けば思想の悪化、犯罪の増加、政治の貧困等々を言うが、これについて私はその原因が精神病と密接な関連のある事で、今それをかいてみよう。
 
まず精神病なるものの真因は何であるかというと、これがまた破天荒ともいうべき何人も夢想だもしない事である。もちろん真理そのものであるから、真の精神病者でない限り何人も納得のゆくはずである。

そうして精神病の真因は肉体的と憑霊現象とである、というと唯物主義教育を受けて来た現代人にはちょっと判り難いかも知れない。

何しろ眼に見えざるものは信ずべからずという教育をサンザ叩き込まれて来た以上、そう簡単には判りようはずのない事は吾らも充分承知の上である。

といっても真実はいくら否定しても真実である。眼に見えないから無というなら空気も無であり、人間の心も無という事になろう。
 
霊があるから在る、憑霊現象もあるから在る——という真実を前提としなければこの論はかけない。ゆえに霊の実在を飽くまで否定する人は、この文を読まない方がいい。

そういう人は吾々を目して迷信者とみると同様、吾々から観れば、そういう人こそ気の毒な迷信者というのである。さていよいよ本文にとり掛るが、まず精神病者は憑霊現象であるとすれば、なぜであるかというと、世間よく首が凝る、肩が凝るという人は余りに多い事実である。

恐らく日本人全部といってもいい程であろう。私は長い間の経験によって、いかなる人でも必ず頸肩に凝りがある、稀には無いという人もあるが、それらは凝りはありながらあまりこり過ぎていて、その苦痛に鈍感になっているためである。

右のごときこりが精神病の真原因といったら、その意外に吃驚(びっくり)するであろうが、順次説明するに従ってなる程と肯(うなず)くであろう。
 
頸、肩のこりは頭脳に送血する血管を圧迫するので、それがため前頭部内に貧血を起す。ところがこれが問題である、というのは頭脳内の貧血は貧血だけではない。

実は血液なるものは霊の物質化したものであるから、貧血は頭脳を充実している霊細胞の貧血ではない貧霊となる事である。この貧霊こそ精神病の原因であって、憑霊は霊の稀薄を狙って憑依する。

その霊とは何であるかというと、大部分は狐霊で、次は狸霊、稀には犬猫のごとき霊もある。もちろんいずれも死霊で、また人霊と動物霊との共同憑依もある。

ここで人間の想念を解剖してみると、まず理性と感情とそれを行為化する意欲である。その理由としては、前脳内の機能は理性を掌(つかさど)り、後脳内のそれは感情原となる。

この証左として白色人種は前頭部が広く発達しているのは、理性の豊富を示し、反対に黄色人種は前頭部が狭く後頭部が発達しているのは、感情の豊富を示しているにみて明らかである。

白人が智〔知〕的であり、黄人が情的であるのは誰も知るところである。ゆえに人間は常に理性と感情とが相剋(そうこく)しており、理性が勝てば失敗はないが、そのかわり冷酷となり、感情が勝てば本能のままとなるから危険を生ずる。

要は両様相調和し、偏らない事が肝腎であるにかかわらず、人間はどうも片寄りたがる。そうして理性にしろ感情にしろ、それを行為に表わす場合、大小に関わらず意欲が要る。

その意欲の根原こそ、腹部中央臍部内にある機能である。いわゆる、行いの発生源であって、右の三者の合作が想念の三位一体である。
 
ところが前頭内の貧霊は、不眠症を起す、不眠の原因のほとんどは、後頭部右側延髄付近の固結であり、それが血管を圧迫するからである。

不眠は、貧霊に迫〔拍〕車をかけるから、得たりかしこしと狐霊は憑依する。前頭内は人体の中枢であるため、その部を占有する事によって人間を自由自在に操り得るのである。狐霊はこの人間を自由にする事に興味をもち、しかもそれによって狐霊仲間で巾(はば)が利く事になるので到底人間の想像もつかない訳である。

この狐霊については私の実験を本とし近く詳細書くつもりだから読者は期待されたいのである。
 
以上のごとく、人間の本能である感情を常に制扼し、過ちなからしめんとする活力こそ理性の本能で人間がともかく普通生活を営みつつあるのは、理性という法律によって本能を抑え生活秩序が保たれているからである。

従って、この法律の力を失うとすれば、感情は自由奔放脱線状態となる。それが精神病である。
 
右のごとく法律が前頭内に光っているのを識っている憑霊は、そこを目がけて憑依しある部分を占有する。もちろん霊が充実しておれば憑依する可能性はないが、稀薄といっても厚薄の差別があり、その差別に憑霊の活動力が相応する。

例えば、前頭部の霊の充実が十とすれば、憑霊する事は全然出来ない。九となれば一だけ憑依出来る。二となり三となり四となり五となり六となった場合憑霊は六の力を発揮し得るすなわち、四の理性の力では六の感情の力は抑圧不可能となるから、憑霊は自由に人間を支配し得るのである。
 
最初に述べたごとく、凝りのため血管が圧迫され貧霊する。その割合だけ憑霊が活動し得る事は前述の通りである。ところが現代人に凝りのないものはないから、霊の充実が十ある人など一人もないと言っていい。

社会で尊敬されるような人でも、二ないし三くらいの欠陥はある。あんな偉い人がアンな間違いをするとか、あのくらいの事が判らないかとか、どうして失敗したのかなどといわれるのは右の二、三の欠陥あるためである。

しかしながらこの欠陥は一定不変ではない。常に動揺している。非常に立派な行為をする時は二くらいの欠陥の時であるが、何らかの動機にふれて邪念が起り罪を犯す場合は四くらいかそれ以上の状態になった時である。

これは世間によくある事だが、大抵は罪を犯してから後悔するがその時は二くらいに還った時である。よく魔がさすというのはこの事をいうのである。

ところが一般人はまず平常三ないし四くらいであって、動機次第ではいつ何時五の線を突破するか判らない。この場合思いもよらぬ罪悪を犯すのである。

この例としてヒステリーであるが、この原因はほとんど狐霊で、この狐霊が前頭内に蟠居〔踞〕し五の線を突破するか、あるいは嫉妬、怒りのため五の線が先へ破れる場合である。

そうなると心にもない滅茶苦茶な事をいい、狂態を演ずるが長くは続かない。というのは五の線が再びそれ以下に保たれるからである。

従って、人間は三の線を確保すべきで、四くらいの線では危ないのである。今日犯罪者が多いというのは右の理を知ればよく判るであろう。

憑霊とはもちろん獣霊である以上五の線を突破すれば形は人間でも、心は獣類と何ら異ならない事になる。この点人間と獣類の差別の著るしい事は人間には愛があるが、獣類によっては親子夫婦の愛はあるが、隣人愛はほとんどない。

反って鳥類虫類にはよくある。しかし大抵の獣類は夫婦親子の愛すらないので、人間が獣性を発揮するや、到底考えられない程の残虐性を表わすのである。

以上述べたごとく、十の霊保持者がないとすれば、それ以外は憑霊に多少なりとも左右される訳で、それだけ精神病者といえる訳である。忌憚なくいえば日本人全部が多少の精神病者であると言っても過言ではない。
 
これについて私の経験をかいてみるが、私は毎日数人ないし数十人の人に遇い種々の談話を交換するが、いささかも破綻のない人は一人もないといっていい、いかなる人といえどもいくらかは必ず変なところがある。

世間から重くみられている人でも、普通では気のつかないくらいの欠陥はあるに鑑(み)て、軽度の精神病者はまず全般的といってもよかろう。

 
今一つは言語ばかりではない。行為の点も同様である。もちろん行住座臥(ぎょうじゅうざが)誰でも出鱈目(でたらめ)ならぬはほとんどない。

道法礼節(どうほうれいせつ)など全然関心をもたない。大抵の人は部屋へ入りお辞儀をする場合でもほとんど的外れである。壁へ向かってするもの、障子へ向かうもの、庭へ向かうもの等、実に千差万別である。また馬鹿丁寧な人があるかと思えば簡単すぎる人もあり、これらことごとくは軽度な精神病者であろう。
 
最後に当って根本的解決方法をかいてみるが、それには頭脳への送血妨害としてのこりの解消とこりの原因である。

こりを解消するにはもちろん本教浄霊であって、これ以外、世界広しといえどもない事はここに断言する。ゆえに本教信者は普通二か三で、三の線から逸脱する者はまずあるまい。

何よりも本教信者の品性をみればよく判る。以上の意味によって、今日の社会悪防止に、本教がいかに大なる功績を挙げつつあるかは触るる者の必ず知り得るところである。

またこりの本質は何であるかというと、言うまでもなく薬毒である。

(注)
行住座臥(ぎょうじゅうざが)、仏教用語、
行く事、とどまる事、坐る事、臥す事。
戒律にかなった日常の動作をいう。転じて日常の行為。

『地上天国』8号、昭和24(1949)年9月25日発行

joan369 發表在 痞客邦 留言(0) 人氣()

これも可笑(おか)しな題だが、
実は本当の事であって、ただ一般が気が付かないだけの話である。

それは何かというと今日の社会は真実そのものは至って少く、
大部分といっていい程大なり小なり詐欺(さぎ)的手段が公然と行われている。

それを今かいてみるが、例により医薬の面でまず薬である。

毎日の新聞の広告欄を見ても分る通り、
薬の広告が大半を占めている。
このような莫大な広告料を払ってまで割に合うのだから、
いかに売れるかが分る。
これでみても今の人間が服(の)む薬の量は
大変なもので少し有名な売薬は、
五段抜き二つ割大の広告を毎日のように出しているが、
この広告を吾々の見地から検討してみると、
ほとんど詐欺ならざるはないと言っていいくらいである。

例えばこの薬をのんだら何病に効くとか、
何病の発病が予防出来るとか、
血が増え肉が増えるとかサモ素晴しい効果がありそうに思われるが、
ことごとくは売らんがための欺瞞(ぎまん)手段である。

というのは第一当局にしても薬の効く効かないは問題ではない。
ただ害にさえならなければ許可する方針だというのであるから、
売薬業者もその点充分承知しているはずであるから怪(け)しからん話だ。

もっとも昔から売薬の効能といって誇大が
当り前のようになっているのは誰も知っているであろう。
これらも公平に見て一種の詐欺的行為といえよう。
しかも人の弱身につけ込んで金儲けに利用するのだから、
その罪赦(ゆる)し難しであろう。

次は医学であるがこれも大同小異で、
ただ世人が気がつかないだけの事である。
例えば貴方(あなた)の病気は一週間通えば治るとか、
この注射を何本射てば快くなるとか、
この手術なら、この薬を続ければなどといって患者に安心させるが、
恐らく言葉通りに治った例(ため)しは極く稀(まれ)であって、
大部分は見込違いであるのは医師もよく知っているはずで、
これをパーセンテージで表わしたら、
意外な結果であろう。
してみればこれらも善意の詐欺といえない事はあるまい。

ゆえに“貴方の病気は私には分らないから確かな事は言えない、
服み薬でも注射でも何々療法でも、
治るとは断言出来ない、
入院しても確かに治るとは請合えない”と言うのが本当であろうが、
それでは患者は来なくなり、
たちまち飯の食い上げとなるから止むを得ないとは思うが、
患者こそいい面の皮であり、
医師の立場もサゾ辛いだろうと御察しする。

また手術にしても一回で治らず、
二回、三回というように回を重ねても治らず、
酷(ひど)いのになると一週間の入院で治ると請合っても治らず、
二週間、三週間、ついには半年、一年となっても
治らない例もよく聞くのである。

これらに至っては多額の入院料を払いつつ、
長い間散々苦しんだ揚句(あげく)、
病気の方は入院当時よりも悪化し、
結局退院か死かのどちらかというような人も随分多いようで、
結果からいってヤハリ詐欺になり患者は被害者になる訳である。

そのような事が何ら怪しまれず公々然と行われている今日であるから、
実に恐ろしい世の中と言わざるを得ない。
ところがこういう場合医師は巧く逃げる。
いわく貴方は異常体質だ、手後れだったのだ、
非常な悪質な病気だ、万人に一人しかない病だなどといって済んでしまう。
中には良心的な医師もあって、
自分の見込違いだったという事もないではないが、
これらは極く稀である。

次は政治面であるが、政府の公約も、
議員候補者の選挙演説なども、
国民や選挙民に誓約した言葉などその場限りで忘れてしまい、
何ら責任を負わないのが通例となっている。

また政党なども口では国家本位などというが、
実は我党本位であって、
是々非々(ぜぜひひ)も御都合次第で、
いつかは煙になる事が多い。

また商工業者の見本と現品の違う事など当然のようになっており、
手形の不渡(ふわたり)の多い事などかけば限りがない程で、
ただ法に触れるか触れないかの際(きわ)どい詐欺は
当然のように社会一般に行われている。

というように今日の世の中で正直明朗はほとんど見られない。
今一つの驚くべき事は宗教にも詐術があると聞いたら誰しも意外に思うであろう。
それは何かというと、
例えば貴方の病気を治すには、
幾ら幾ら金を献(ささ)げなさいという宗教がある。

しかしその通りに上げても治らず、
死ぬ事もあるから、
これらは神の名を利用した立派な詐欺であろう。
そうかと思うと御利益のない内から信じなくては治らないというかと思えば、
御利益のないのは信仰が足りないからなどと逃げるのも、
厳密にいえば詐欺でないと誰か言い得よう。

こうみてくると今日の世の中は、
真実は絶無とは言えないまでも、
まことに寥々(りょうりょう)たる有様で
ほとんど嘘つき瞞(だま)し合いが普通の事のようになっている。
全く闇の世の中である。

この闇の世の中を明るい世の中に切替えるのが我救世教の使命であるから、
世間でもお光様というのであろう。

「詐欺時代」『栄光』231号、昭和28(1953)年10月21日発行

joan369 發表在 痞客邦 留言(0) 人氣()

そもそも、
救世主とは何か、
いうまでもなく文字通り
世を救うべき大使命を負って生れたる大聖者であって、
事実は歴史はじまって以来、
いまだ顕現したる事のないのはもちろんである。

これについて
私自身の偽らざる告白を、
赤裸々に露呈し、
現在私が行いつつある聖業について
書いてみようと思うのである。

私というものが今行いつつある救世的活動は、
人類全体からみれば何万分の一の小範囲かも知れない。

しかしながら
日に月に救われる人が殖えつつある現状からみて、
将来はいかに大規模に救われるであろうかも
想像され得るのである。

私は見えざる力を盛んに行使している——
というと唯物教育を受けた現代人は
そんな馬鹿な事があるかと、
山師的とみるかも知れない。

何となれば
見えざる力などとは余りに非現実的であるからである。
それも無理もないが、
もし真に現実であり、
実証的であるとしたらどうなるであろう。
実に空前の一大センセーションを捲き起さずにはおれないであろう。

私が信徒を介して行う間接的力によって、
絶望と決した難病が治り、
決定的死の運命が復活され、
健康人間として活動されるようになった実例は、
実に今日まで何万何十万を数えるか判らない程である。

古往今来人間の寿齢なるものは運命のままに委せられ、
文化の進歩も医学の発達も、
こればかりはどうにもならないとされて来た事は
言うまでもない。

ところが右に述べたごとく、
人類唯一の欲求たる生命の延長が、
可能となったとしたら、
この実相を把握し、
信じ得る人の歓喜はいかばかりであろうか、
恐らく形容の言葉もないであろう。

しかし
この事実を人の言葉や本教刊行物によって
知ったとしても、
直ちに受け入れられない事は致し方あるまい。
ある者は迷信とし、
ある者は大山師とみるのもまた当然であろう。

しかしながら
精神病者以外、
いかなる人間といえど幸福を冀(
こいねが)わぬ者は一人もあるまい。

あらゆる幸福条件が具備されたとしても、
ひとり健康を得ないとしたら、
その幸福は零以外の何物でもない。

キリストはいった。
「人、全世界を贏(う)くとも、
己が生命を損せば何の益あらん。
またその生命の代(しろ)に何を与えんや」とは
宜(むべ)なる哉(かな)である。

実に健康程貴重なものはあるまい。
人生幸福の全部は、
健康の二字に尽きるといってもよかろう。

本教によって救われたところの幾多の実例は、
本教刊行物に満載されている。

もちろん病気ばかりではない。
危険に直面した災害から救われたり、
貧困が解決されたり、
不幸な人も幸福者になった等々、
感謝感激の報告は机上(きじょう)に山を成している。

私が今行いつつある救いの業は、
養成された幾万の弟子にやらせているが、
彼らは日々数え切れない程の奇蹟を表わしている。
その結果としての教線の拡張進展は
世間の問題とされる程に見ても明らかであろう。

人類史上、
古来大宗教家も大聖者も幾人か表われた事は文献によっても、
現存せる事績によっても知らるるところであるが、
今私が行っているそれとは比較にならない程の異(ちが)いさがある。

そうして彼のキリストの再臨も
メシヤの降臨も
弥勒下生(みろくげしょう)も、
転輪(てんりん)菩薩の出現も、
上行(じょうぎょう)菩薩の出生も、
時の問題であろう。
何となれば実現性のない荒唐無稽(こうとうむけい)の予言を、
数百数千年以前からされ給うはずはないからである。

元来、私は大聖者たろうとも、
救世主になろうとも望んだ事はいささかもない。
何となれば
それほどの自分とは思っていなかったからである。
ただ若い頃から人類愛に燃える余り、
宗教人となって大いに世を救いたいと思っていたばかりである。

ところが宗教界に入りある程度の修行が終った頃、
私は神霊の啓示を受けると共に、
時の推移するまま不思議な事が次々に起って来た。

そうして予想だもしなかった驚くべき霊力を与えられた事である。
しかも途方もない運命の転換は私をして驚嘆せずにはおかなかった。

実に奇蹟から奇蹟へと進んでゆく、
これをたとえていえば、
私が何かを冀(こいねが)うと必ずそれが実現する。

私が墨で紙へ文字をかくとその文字が生きて躍動する。
その紙を畳んで
お守として懐へ入れるとその刹那(せつな)から気持が明るくなり、
奇蹟が起り始める。

人の病気を治し得る力も発現する。
不幸な境遇の人も漸次好転する。
また私が書いた文字を床へ掛けたり、
額にかけたりするとその文字から光を発し、
肉眼で見る人もよくある。

もちろん家庭も明るくなり、
農家においてはたちまち収穫が増したりして、
家庭は漸次天国化するという実例は
多くの信者達が常に異口同音に唱えるところである。

以上述べたように、
不思議な神業を行わせられる私としては、
救世の大使命を遂行させんがため、
神の代行者としての神護を与えられていると思っている。
従って今後の本教の活動を充分観られん事で、
それをもって批判の的とされたい事である。

以上は、
本教の大体をかいたのであるが、
なお一層深く研究されたい方のために
別紙(略)のごとき一覧表を添えてありますから、
どなたでも気軽くお訪ねになればよく教えて呉れます。

また本教刊行の新聞雑誌を初め、
書籍類も当所に種々ありますから、
精々御講読あらん事を御勧めするのであります。


(注)
宜(むべ)、もっともであること。

『世界救世教早わかり』昭和25(1950)年11月20日発行

joan369 發表在 痞客邦 留言(0) 人氣()

しんり   じじつ    う い   こと  ほか    し
真 理とは 事実 のままに受け入れる 事 より外 になしと知れかし
shinri towa
jijitsu no mama ni uke ireru
koto yori hoka ni nashi to shire kashi


にんげんの つく  りくつ とらわ   まこと み  おろ   よ
人 間 の 作 りし理屈 に囚 はれて 真  の見えぬ愚 かなる世や
ningen no
tsukuri shi rikutsu ni torawarete
makoto no mienu orokanaru yo ya

 
かがく   じじつ ま        かしこ      うおろ
科 学もて 事実 を枉げるうかつさを 賢  きものとおもふ愚 かさ
kagaku mote
jijitsu wo mageru ukatsusa wo
kashikoki mono to omou orokasa




joan369 發表在 痞客邦 留言(0) 人氣()

くる    つく ぶんめいたの    つく ぶんめい きりか    われ
苦 しみを 作 る文 明 楽 しみを 作 る文 明 と切 替えるなり吾 は
kurushimi wo
tsu ku ru bunmei tanoshimi wo
tsuku ru bunmei to kirikaeru nari ware wa


おもて   へいわ とな   うら  やいば みが よ
表  には 平 和を唱 えその裏 に 刃  を磨 く世にぞありける
omote ni wa
heiwa wo tonae so no ura ni
yaiba wo migaku yoni zo arikeru


S28.12.25

joan369 發表在 痞客邦 留言(0) 人氣()

なぜ世界はこんな状態なのか?

人間が何度も何度も神に問いかけてきた疑問だな。
時のはじめから、
ひとはそれをと問いつづけてきた。
この対話の最初の瞬間から、
あなたは、
なぜこんなふうでなければならないのか、
知りたがっていた。

ふつうはこんな問われ方をしてきた。
神が完璧であって、
完全なる愛であるなら、
どうして神は伝染病、飢餓、戦争、病気、地震や竜巻、
ハリケーンといった天災、
深い失望、世界的な災厄などをつくったのか。

この質問に対する答えは、
宇宙のさらに奥深い神秘と、
人生のさらに高い意味のなかにある。

神のすばらしさを示すために、
あなたがたのまわりを完全ずくめにしたりはしない。
神の愛を実証するために、
人間が愛を実証する余地をなくしたりはしない。

世界がいまの状態なのは、
ほかの在り方ができず、
まだ物質的に素朴な領域にあるからだ。
地震やハリケーン、洪水、竜巻など、
あなたがたが天災と呼ぶものは、
一方の極から対極への要素の移動にほかならない。

生死の循環はすべて、
この移動の一部である。

それが生命のリズムであり、
素朴な領域にあるものはすべて、
このリズムに従う。

生命それ自体がリズムだからだ。
それは波であり、振動であり、
存在のすべての鼓動だ。

病や不調は健康と快調の対極であり、
あなたがたの要請に応じて現実になる。

どこかのレベルで、
自らが引き起こさなければ病気にはならないし、
元気になろうと決意さえすれば、
快くなる。
個人的な深い失望も、
自分で選んだものだし、
世界的な災厄は、世界的な意識の結果である。

世界の悪と呼ぶものを非難してはいけない。
それよりも、
それのどこを悪と判断するのか、
どこを変えたいのかと自問しなさい。

外に向かってではなく、
内に向かって、
この災厄を前に、
いま、自分は何を体験したいのだろう。
自分のどの部分を引き出したいのか。
と問いかけなさい。

人生のすべては、
あなた自身の創造の道具なのだから。
出来事のすべては、
自分は何者なのかを決定し、
その自分になる機会を、
与えるために存在しているだから。

これがすべての魂にとっての真実だ。

成功をうらやまず、
失敗を哀れむな。
魂の決算の時がきたら、
何が成功で、何が失敗になるか分からない。

何をするにしても、
レッテルを貼ったり、決めつけたりするのは避けなさい。

それぞれの環境が贈りものであり、
それぞれの経験が隠された宝なのだから。

為什麼,世界是如此的狀態?
好幾次、好幾次,
人們總是問神。
從這個對話開始的瞬間,
你就很想知道為什麼。

通常,
人們會這麼問。
神既然是完美的、充滿完美的愛,
為什麼在世界上會有
傳染病、飢餓、戰爭、疾病、地震、龍捲風、颶風等天災,

對於這些問題的回答,
蘊含著宇宙深奧的神祕、
和人生更崇高的意義。

神不會為了顯現祂的卓越,
而不讓你的周遭過於完美。
神不會為了證實神的愛,
讓人們無法證實愛。

世界呈現如今的狀態,
是因為沒有辦法呈現其他的狀況。
因為還存在於物質的樸素領域。
地震、颶風、洪水、龍捲風等,
你們所謂的天災,
是一種從極端轉移向
另一個極端必須的要素。

生死的循環,
這一切,
都是這個移動的一部分。

這就是生命的韻律,
樸素領域中的一切,
都依循著如此的韻律。

生命本身就是韻律,
是波浪、是震動,
所有存在的鼓動。
疾病、不舒服是健康、舒服的相反,
依據各位的需求而實現。

在某種程度之內,
若不是自己希望得病,
是不會生病的,
下決心,希望健康、愉悅。

個人的深沈失望也是自己選擇的,
世界的災害,
也是世界意識的結果。
切勿非難,所謂「世界的惡」,
與其如此,
不如判斷,
哪裡是惡,
自問希望如何改變它。

並非向外,
而是向內,
在內心,
面臨災難前,
自問希望體驗什麼。
自問,希望將自己的哪一個部分掏出。

人生的一切,
正是自身創造的道具。
發生的事情,
全都是自己是誰而決定,
為了被賜予成為那樣的自己,而存在。
這是對一切靈魂而言的真實。

切勿欣羨成功,
為失敗而喪志。
這是靈魂決算的時機,
什麼是成功、什麼是失敗,
誰也不知道。

作任何事情,
切勿貼標籤、過度主觀地決斷。
任何一種環境都是贈禮,
隱藏著任何一種經驗的寶物。

joan369 發表在 痞客邦 留言(0) 人氣()

 単に智慧といっても種々ある、今それを分類してみよう、まず最高は神智、次が妙智、叡智、才智、奸智の順序で大別して五段階になる、私は名づけて五智という、これを一つずつ説いてみよう。

 神智とは最高の智慧で、これは普通人には得られない、特別の人間が神授の智慧で、それはその人が重大使命を神から委任されたからである、昔から「学んで知るを人智と言い、学ばずして知るを神智」と言うが、一言にしてよく表わしている。

 妙智というのは、観音妙智力などといい、前述の神智に対し仏智ともいうべきもので、神智は男性的とすれば妙智は女性的ともいえるので、妙の字が女偏であるのも面白いと思う。

 叡智とは、賢明な人間が表わす智慧で、仏教で智慧証覚とか、単に智慧というのはこれを指すのである、しかし今の世の中はこの叡智さえも働かない人が洵(まこと)に多いのである、それはいうまでもなく邪念のために心が曇り、物の正しい判断がつき難いからである、

この例を一つかいてみよう、今日政治家はもちろんの事、あらゆる有識者といえどもある問題に対し会議をする場合、小さい問題でも、多数の人間が何時間も掛って頭をひねらなければ結論が見出せない、少し大きな問題になると十数人あるいは数十人が額を鳩(あつ)め侃々諤々(かんかんがくがく)の議論を闘わし、何回も何日も会合しても仲々結論を得られないというのであるから、いかに頭脳の働きが悪いかという事である。

 考えても見るがいい、いかなる問題といえども結論はたった一つである、決して幾つもありようはずがない事は誰しも知っていながら、それが多勢の頭脳と幾日もの日時がかかるというのであるから、実に情ないの一言に尽きると吾らは常に思っている、

これというのも全く叡智が足りないからで、叡智の足りないという事は頭脳が曇っているからで、頭脳が曇っているという事は邪念があるからで、邪念があるという事は唯物主義を信奉するからで、唯物主義を信奉するという事は神の実在を信じないからで、神の実在を信じないという事は神を信じさせ得る宗教がないからであるとすれば神の実在を如実に信ぜしむる宗教こそ、本当に役立つ生きている宗教といってよかろう、かように諄々(くどくど)しく言わなければならない事程さように現代人は叡智が欠けているという訳である。

 この意味において叡智ある人は、いかなる問題に打(ぶ)つかっても、数分間ないし数十分間に結論を発見し得るのである、これについて私は部下に対し、いかなる問題に当っても結論を見出すまでの論議はまず三十分くらいを限度とし、長くとも一時間以上になる場合は、その会合を一時中止すべきであって、他日を期して再会議するか、または直接私に相談せよというのである。

 私の事を言うのは心苦しいが、私はどんな難問題に対しても数分間で結論を見出すのである、たまには急速に結論を見出し得ない場合もあるが、そういう時は強いて見出そうとしないで一時それを延ばすのである、そうすると日ならずしてインスピレーション的に必ず結論が頭に閃めくのである。

 次に才智であるが、これは誰も知っている通り表面だけの浅智慧であるから一時的良くても時が経つと必ず失敗したり信用を落したりする、言い換えれば愚智または鈍智とも言えるのである。

 奸智は、これも読んで字のごとく邪悪の智慧でいわば悪人の用いる智慧で悪智慧ともいう、これも世間にはなかなか多く、しかも智〔知〕識階級、指導者階級にも相当多いのだから社会が良くなりよう訳がない、ゆえにこういう悪智慧が抹殺される日本になってこそ、明朗な社会が出現するのである、しからばこの奸智を抹殺する方法はありやというに、それは訳はない、悪智慧の発生地を全滅させる事である、その方法こそ神の実在を信じさせる力ある宗教の活動による外はない。

『光』23号、昭和24(1949)年8月20日発行

joan369 發表在 痞客邦 留言(0) 人氣()

 私は目下文明の創造なる大著述をかきつつあるが、その予告として序文をこの欄に載せる事にした。

文明の創造

  序文

 この著は歴史はじまって以来、いまだかつてない大聖著であり、一言にしていえば新文明世界の設計書であり、天国の福音でもあり、二十世紀のバイブルといってもよかろう。

すなわち現在の文明は真の文明ではなく、新文明が生まれるまでの仮の文明であって、聖書にある世の終りとは、この仮定文明世界の終りを言ったものである。

また今一つの“あまねく天国の福音を宣べ伝えらるべし、しかる後末期到る”との予言も、この著の事であろう。

そうしてバイブルはキリストの教えを綴ったものであるが、この著はキリストが繰返しいわれたところの、天の父であるエホバ直接の啓示である。

そうしてキリストはこうも言われた。それは『天国は近づけり、なんじら悔改めよ』との警告である。してみればキリスト自身が天国を造るとは言われなかったのである。

 しかし私は天国は近づけりとは言わない。天国はすでに来れりというのである。

何よりも私は目下天国の基礎的準備に取り掛っており、はなはだ小規模ではあるが、日々驚くべき力と奇蹟を顕わしつつあり、人々は驚嘆している。

そうして右のごとき模型的経綸が漸次発展するに従い、他面世界的には旧文明の清算の幕が切って落される。それが最後の審判の開始であって、眼目は善悪の立分けである。

すなわち悪は亡び善は栄える段階に入るのである。

これがためいかに多数の犠牲者が出るかは計り知れないものがあろう。
しかしながら神の大愛はこれら犠牲者を最少限度に喰止めらるべく、救いのその第一声がこの著出版の理由である。

といっても旧文明世界からも、神は善悪正邪を選り分け善にして役立つ者は残されると共に、悪にして見込なき者は永遠に滅びるの止むなきに至るのである。

 以上のごとく、最後の審判が済むや、続いて新世界設計の順序となるのはもちろんだが、その転換期におけるあらゆる文化の建直しこそ、空前絶後のものであって、言うまでもなくそれは旧文明の誤謬の是正と共に、新文明の指針を示すのである。

ところがここに悲しむべき事がある。というのは人類が数千年の長い間に堆積されたところの罪穢であって、当然この大浄化作用が発生するのである。

それをこれから詳しく説いてみるが、幸いこれを読む人々は救いの綱を目の前に出されたのであるから、何らの躊躇(ちゅうちょ)なく掴まれん事である。

それを前もって人類に知らせ、悔改めを私は神に代って勧告するのである。

これぞ神の大愛でなくて何であろう、従ってこれを知った以上、一時も早く頭の切替えは固より、心の準備に取掛るべきである。

そうして審判の最後に到っては、罪深き者は亡び、罪浅き者は救われるのは決定的であるから、これを信ずる者こそ永遠の生命を獲得すると共に、将来における地上天国の住民として残るのである。

そうして主神の経綸の深くして、そのスケールのいかに大なるものであるか、また現在までの文明がいかに野蛮極まるレベルの低いものであるかを、この著によって充分知らせ確固たる信念を得させるのである。

 一九五二年八月
    箱根の寓居において
               著 者 識

『栄光』170号、昭和27(1952)年8月20日発行

joan369 發表在 痞客邦 留言(0) 人氣()

まがかみ   おそれ      まこと
曲 神  を 恐  るるなかれ 誠  もて
magakami wo osorerurunakare makoto mote

ときま      かなら   か
時 待ちぬれば  必  ずや 勝たなん
toki machinureba kanarazu ya katanan

Do not fear evil goods,
If you wait for the right time,
You will surely prevail
With Makoto.

切勿
畏懼黑暗勢力
若是心懷真誠
等待正確時機
勢必勝利

joan369 發表在 痞客邦 留言(0) 人氣()