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  • Nov 01 Thu 2007 01:55
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この病気は肉食病といってもいいくらいのもので、
これを根本的に説明してみると、
最初造物主は人間を造った時、
その食物としては穀類、野菜、獣鳥肉、魚肉等
それぞれ人体に適合した物を造られ、
それを食う事によって、
健康で生を営み得るようにされたのである。
もちろん住んでいる風土、気候や、人種別にも
適応するようになっているのはもちろんで、
それが自然である。

従って米国における大いなる沃野(よくや)と、
そこに生産する穀類、野菜、獣鳥肉等が
豊富であるのも植物性と動物性食物を適当に食えという訳である。
また日本は陸地が狭く、
海に取り巻かれているのは、
魚肉を多く食えというのである。

ところがそのような自然の実体を、
科学という魔法使が打ち壊してしまい、
人体を単なる物質扱いにした結果
形而下(けいじか)的には進歩発達はしたが、
形而上(けいじじょう)の存在である人間の生命までも形而下に引き下し、
栄養学などという飛んでもない学問を作り、
皮相なる分析上から獣肉を推奨したのであるから、
今日のごとく肉食過多に陥ったのである。

ところが元来獣肉には一種の毒素が含まれており、
この毒素が漸次集積し固結したものが真症癌であるから、
自然はこの肉毒中和の必要からも野菜があるので、
穀類は別とし副食物としては相当量野菜を交ぜなくてはならないのである。
そうすれば決して癌は発生しない。
としたら米国などは肉と野菜と半々くらいがちょうどいい訳である。
何よりも菜食多量の民族には癌はないはずである。
近来日本においても癌はあるにはあるが、
米国とは比較にならない程少数であるのは、
全く日本は生活が低く、
肉食が少ないからである。
 
次に注意したい事は、
単に癌といっても真症と擬似との別がある。

すなわち右にかいたのは真症であるが、
実は擬似の方がズッと多く、
この点日本も米国も大差ないであろう。

この擬似癌の原因は、
無論悪性な薬毒の一種であるから、
薬を廃止する事によって無くなるのはもちろん、
罹病の場合薬を廃(や)め菜食を多くすれば
長くは掛かるが少しずつ治ってゆくから、
左程心配はない訳である。

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真善美

吾らの理想とする地上天国とは、
真善美完(まった)き世界であるのはいつもいう通りであるが、
私はこれを一層掘下げてみようと思う。
それには順序として真からかいてみるが、
真とはもちろん真理の具現であり、
真理とは事実そのものであって、
一厘の毫差(ごうさ)なく、
不純不透明のない正しいあり方を言うのである。

ところが今日までの文化においては、
真理でないものを真理と誤り、
真理と扱われて来たのであるから、
真理ならざる偽理(ぎり)が余りに多かった事実である。
にもかかわらずそれに気が付かないというのは、
低い学問のためであったのは言うまでもない。
何よりも現在の実社会を見ればよく分るごとく、
ほとんどの人間は生きんがためただアクセクと働いているばかりで、
そこに何ら希望もなく生きているだけの事である。
病の不安、生活難、戦争の脅威の中に蠢(うごめ)いているにかかわらず、
口を開けば進歩した文明世界といっているが、
厳正に見てほとんどの人間は獣のごとく相争い、
啀(いがみ)合い、衝突を事として、
不安焦躁の渦巻の中に喘(あえ)いでいる様は地獄絵巻である。
これこそ前記のごとく偽真理文化の結果である。
これに対し識者でも気が付かず、
文明世界と信じ、
讃美しているのであるから哀れなものである。

例えば病気にしてもそうだ。
医学が真理に叶(かな)っていないからこそ、
どこを見ても病人はウヨウヨしている。
ヤレ結核、ヤレ赤痢、日本脳炎、脳溢血、
小児麻痺、何々等数え切れない程病気の種類の多い事である。
しかもこの逃口上としていわく、
昔も色々病はあったが医学が進歩していないため発見が出来なかったが、
今日は発見が出来るようになったからであるとしている。
それはそれとして、
吾らが希(ねが)うところは病人が減り、
健康人が増えればいいので、ただそれだけである。
見よ現代人の病気を恐れる事はなはだしく、
そのため当局も専門家も衛生に注意し、
予防に懸命になっているが、
滑稽なのは予防注射である。

これこそ病を治すのではなく、
単なる一時抑(おさ)えにすぎないというように
医学は一時抑えと根治との区別さえ分らないのである。
もっとも分っても治病方法を知らないから止むを得ないが、
しかも医学は病気は健康を増すための神の摂理などはテンデ分らないから、
抑える事のみに専念し、
これが進歩であると思っている。
しかも抑える手段が病原となるなどテンデ分らないので
進歩すればする程病気が増えるのは見らるる通りである。
見よ益々病人が増え、
体位が低下しつつある事である。
そのため疲労や睡眠不足を恐れ、
根気なく無理が出来ず、
少し過激な運動をするとたちまちヘタバってしまう。
滑稽なのは健康のための運動奨励である。
ところが事実はスポーツマンの早死や、
米国のスポーツマンが、
近頃はニグロ系の選手には到底敵(かな)わない事実であって、
これはどうしたものか実に不可解千万ではないか。
ところが本教が唱える病理を守り、
浄霊を受ければ病魔は退散し、
真の健康人となるのは事実が示している。

次に今度は善についてかいてみるが、
善とはもちろん悪の反対である。
では悪とは何かというと、
これこそ唯物思想から発生した無神論が原因であり、
善はその反対である有神論からの発生で、
これが真理である。
ところがこの真理である有神論を否定する事が科学の建前であるから、
科学が進歩する程悪は益々増えるのみか文化の進歩といえど
上面(うわつら)だけの事である。
というように科学が作る功績も認めるが、
科学が作る悪も軽視出来ないのである。
それに気付かない人間はプラスのみを讃美し、
マイナスの方は巧妙な理論を作って指導階級を虜(とりこ)にし、
科学によらなければ何事も解決出来ないというように
精神的幸福とはおよそかけ離れてしまったのである。

次は美であるが、
これがまた問題である。
なるほど文化の発達につれて、
美の要素は大いに増し個人的には結構であるが、
大衆はそれに預り得ないのである。
見よ一部の特殊階級のみが美衣、美食、美邸に恵まれ、
庶民階級はやっと食っているにすぎない有様であり、
美どころではない、
腹を充(み)たすだけの食物、
寝るだけの住居、
往来(ゆきき)するだけの道路、
押し合いへし合い、
ようやく乗れる交通機関(これは日本だけかも知れない)があるだけである。

このような訳でせっかく神の大なる恵みである山水草木、
花卉(かき)類の自然美は固(もと)より、
人間が作った芸術美等も楽しめない社会である。
というようにこれ程文化が発達しながら、
人類全体がその恩恵に浴せないとしたら、
現代は全く金持の天国、貧乏人の地獄である。
この原因こそ文明のどこかに一大欠陥があるからで、
その欠陥を是正し公平に幸福が享有(きょうゆう)されてこそ
真の文明世界であって、
これが我救世教の使命である。

以上によって真善美の真の意味は分ったであろうが、
要はその実現力である。
絵にかいた餅や御題目(おだいもく)だけでは何にもならない。
ところが喜ぶべし、
いよいよその夢が現実となって今やこの地上に現われんとするのである。

『地上天国』52号、昭和28(1953)年9月25日発行

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今度の九州の大風水害は、
いかに惨憺たるものであったかは、
新聞ラジオで詳細報告されたから、
ここでは略すが、
では一体台風というものの原因は何かという事は、
誰も知りたいだろうが、
科学では今のところ全然分っていないから私はかくのであるが、
何しろ科学はいつもいう通り、
浅薄極まる表面的物の見方であって、
内在せる根本には触れていない以上、
いかに進歩しても分るはずはないのである。
そうして台風といえども人間の病気と同様、
それ自体科学の分野ではない。
霊の分野に属しているのである。
それなら宗教で分りそうなものだが、
実は分り得る程の高度の宗教はまだ出ないから致し方がないので、
そこで私は神から教えられた真の原因を説くのである。

以前もかいた事だが、
この世界における森羅万象一切は、
絶えず汚穢が溜ると共に、
それに浄化作用が起って浄められるのが法則となっている。
従って地上の霊界、
現界共に絶えず汚穢が溜り、
ある限度を越えるやここに浄化作用が発生する。
それが台風であって、
つまり風で吹き払い、雨で洗い浄(きよ)め、天日で焼くのである。
この理によって
今回のごとく田畑百数十万町歩(ぶ)も水底に沈んだという事は、
全く人肥金肥の肥毒によって土壌が汚され切っているからで、
それを洗い浄めなければ農作物に影響を及ぼし、
減収になって食糧難に陥る憂いがあるからである。
そうなるとここに浄化担任の神々はその活動を開始されるのである。
 
また破砕(はさい)され流されたりする家屋は、
その物の霊に汚穢が充ちたためであり、
溺死した人間はやはりその人の霊に罪穢が溜って、
生存の資格が失われたからである。
これで大体分ったであろうが、

ついでだから今一つの事をかいてみよう。
それは火災である。
これも知らるる通り、
年々増加の趨勢にあり、
国としての損害は軽視出来ないものがある。こ
れらもやはり浄化であって、
それぞれの建造物に罪穢が溜っているからである。
それは今日どんな家でも土地購入、
建築等に費(ついや)した金が汚れていると共に、
使用の場合その家屋を大なり小なり間違った事をするからで、
これも現代生活上ある程度は止むを得ないが、
それでも神仏の信仰者か余程善徳を積むとしたら、
それだけ穢れは消されるからいいが、
そういう人は滅多になく、
ほとんどは罪の溜め放題であるから、
どうしても火で焼き浄めなければならないからで、
それが火災の原因である。
火災の多いという事は無信仰者や悪徳者のいかに多いかを物語っている訳である。
また山林もよく焼けるが、
これも購入費やその目的に含まれている不正や邪念の汚れのためであるのは言うまでもない。
 
以上のごとく現代人は神を信ぜず、
霊的智識なく、
ただ物質のみを頼りにする以上、
災害の多いのも当然であって、
これが厳正なる神律であるから致し方ない。

それに盲目なるがため末梢的手段のみで防ごうとする以上、
根本的でないから、
結局賽(さい)の河原の石積と同様である。

従って結論としては人事を尽くすと共に、
神を本位として罪穢を溜めないようにする事で、
それ以外万全の方法はない事を心得べきである。


『栄光』219号、昭和28(1953)年7月29日発行

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三日間で博士が出来る

これは自画自讃ではないが、
現在私が揮っている神力のいかに偉大なものであるかは、
どんな言葉でも表現は出来まい。
というのは古往今来これ程超人間的力の経験は、
人類史上嘗(かつ)てなかったからである。
これは信者はよく知っているから、
ここでは未信者を対象としてかいてみよう。
何しろ長い間難病のため医療を始め、
世間にありとあらゆる療法は固(もと)より、
色々な信仰によっても治らず、
悪化に悪化を重ね、進退谷(きわま)った際本教の話を聞き、
早速浄霊を受けるや、
今まで想像もしなかったところの素晴しい効果に愕然(がくぜん)と驚くと共に、
自分ばかりか、
入信すれば人の病気まで治せる事を知った以上、
何が何でも入信する事となる。
ところが二度吃驚(びっくり)、
僅(わず)か三日間の教修で、
直ぐに人の病気が治せるからである。

そこでたまたま病人に出遇(あ)うや、
最初はオッカナ吃驚、
怖々(こわごわ)施術してみると、
驚くべしお蔭様でこの通り快くなりましたと礼を言いに来るので、
余りの不思議さに治った方より治した方が吃驚し、
入信早々こんな力が自分にあるのかと思うと嬉しくて夢のような気がするので、
早速御神書を読んだり先生に訊(き)いたりしてようやく分り、
ここに初めて救世教の真価を知るのである。
それから幾人もの病人を治したりして、
信仰も固まり一人前の信者となるという訳である。
ここでよく考えてみて貰いたい事は、
今日の医学博士である。
博士になるまでには少くとも十数年の年月と、
百万以上の金がかかるという事である。
それ程の犠牲を払ってまでかち得た博士が、
到底不治と匙(さじ)を抛(な)げた難病が、
三日間の修業で出来たてのホヤホヤな赤ん坊博士が、
たちまち治してしまうのだから、
これ程理屈に合わない話はおよそこの世の中にあるまい、
といっても事実は飽くまで事実である。
もし嘘と思う人があったら、
思い切って真相を暴(あば)いて貰いたい。
私はそれを希望する。

以前私は某医師からこういう事を聞いた。
それは国民全部が医師になれば、
衛生も養生も健康法も必要がなくなり、
それで国民保健は解決するという話なので、
当時なるほどと思った事がある。
ところがその頃は医学を立派なものと思っていたからであって、
今日逆医学だという事が分った以上駄目に決っているが、
もしそうだとしても、
前記のごとく医師を作るには、
大変な金と時を要するから、
事実上不可能である。
ところが我浄霊法は前記のごとく三日間で、
博士以上の名医になれるのだから、
こんな簡単にして偉大な医学はあるまいと共に、
国家経済上にも大変なプラスであって、
夢としか思えまい。
従って全国民ことごとくが浄霊法を覚えるとしたら、
ここに病なき日本となるのは当然で、
国家の隆昌(りゅうしょう)は素晴しいものであろう。
その結果日本は世界第一の模範的文化国家となり、
各国挙(こぞ)って見習う事になるのは火をみるよりも明らかである。

諸君、何と偉大なる事業でなかろうか。

『栄光』232号、昭和28(1953)年10月28日発行


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前項に述べた処は、
大自在天なるいわば、
バラモン宗盛んであった頃の主宰者を表したのであるが、
その当時曩に述べた如く、
日本古来の神々は印度へ渡航し、
化身仏となられたのである。
その化身仏の総領が伊都能売神であって、
当時日本に於ける最高の地位であられたのである。

ところが、
その頃素盞鳴尊を中心とする朝鮮の神々が渡来され、
伊都能売神の地位を狙って要望したが、
容易に応諾されないため、
威圧や迫害などから進んで遂に生命までも及んできたので、
急遽御位を棄てられ、
変身によって、眼をそらし、
密かに日本を脱出し、
支那を通って印度に落ちのび給ったのである。
そうして、観自在菩薩の御名によって、
当時印度の南方海岸にある補陀落迦という名の、
あまり高からざる山の上に安住せらるべく、
新たなる清き館を建てられたのである。
此の事は、悲華経の中にある。
曰く、
「観自在菩薩は補陀落迦山上、
柔らかき草地の上に、
二十八部衆を従え、
金剛宝座に結跏趺座して、
説教をされた。」とある。

当時また善財童子という御名であった若き釈尊は、
その説教を聴聞して、
その卓抜せる教えに感激と共に、
心機一転し、
それまでの悉達太子という皇太子の御位を放棄し、
一大決意の下に、
当時紊れていた俗界を離脱し、
直ちに檀特の山深く別け入り、
菩提樹の下、石上に安座し、
一意専心悟道に入るべく、修業三昧に耽ったのである。

そうして、行きなり出山するや、
愈々釈迦牟尼如来として、
仏法開示にとりかかられたのであるから、
実際上仏法のほんとうの祖は、
日本の伊都能売神であった事はたしかである。
(《文明の創造》〔伊都能売神〕より)

皇太子であられた 悉達太子が修業終わって、
大覚者となり、
出山したのである。
太子は幽現界の真相を会得し、
燃ゆるがごとき大慈悲心をもって、
一切衆生を済度せんとする本願を立てた。
そうして、手段として、
先ず、天下に開示されたのが、
経文を読む事によって、
覚りを得るという方法で、
これを大衆に向かって、
大いに説諭されたのだから、
当時の社会に一大センセーションをまき起こしたのは勿論である。
何しろ読経という安易な修業であるから、
ここに大衆は釈尊の徳を慕い、
日に月に仏門に帰依するもの続出するので、
遂に釈尊をして、
印度の救世主の如く信奉の的となったのは無理もない。
そのようなわけで、
遂に金印度を仏法化してしまったので、
これが仏教の起源である。

観世音菩薩のご本尊は伊都能売神である事は、
以前から、わたしは度々知らしてある所であるが、
これについて分からねばならない事は、
元来仏身なるものの根本である。
単に仏と言っても、
実は二通りあって、本来の仏身と神の化身との両方ある。
そうして、本来仏とは約二千六百年以前、
釈尊の時から生まれたものであって、
その頃までは今日の印度は、
当時月氏国とも言われたので、
バラモン教が隆盛を極めていたのであって、
教義のようなものはさらになく、
ただ肉体的難行苦行によって、
宇宙の真理を掴もうとしたのである。
(《文明の創造》〔仏教の起源〕より)


右の如き、その転換之意味は、
今日までは夜の世界であったから、
謂はば、月の支配であったのである。
処が愈々昼の世界となると就て、
予て世界の二大聖者として仰がれている釈迦、
キリストの預言された通りの事態となったのである。
そうして、先ず仏典によれば、
釈尊は、「吾七十二歳にして見真実となれり」と言われた後、
間もないある日、
世尊はいつもに似合わず憂鬱の色蔽ひ難いご様子なので、
弟子阿難尊者が憂慮し御訊ねるした。
「世尊よ、今日は常にない御沈みのように見受けられますが、
何かご心配事でも御有りですか」
と申した処、
釈尊は直に御答えになった事は、
「儂は今まで終生の業として、仏法を創成し、
一切衆生を救わんとして、多いに努力を続けてきたが、
今日大仏陀から、意外なる御諭しがあった。
それによると、ある時期に至ると、
我仏法は滅するという事で、
大いに失望したのである。」
との御言葉であって、
それから世尊はこうも謂われた、
「儂は見真実によって、分かった事だが、
今まで説いてきた多くの経文は、
少なからず誤りがあるので、
今日以後真実を説くから、よくこれによって、正覚を得られよ。」
と仰せられたので、
此の時からの経文こそ、
仏法の真髄である事は確実で、
それが、法華経二十八品と、法滅尽経と、彌勒出現成就経である。
ところが、そのことを発見されたのが、彼の日蓮上人であって、
上人は此の発見によって、
他宗教教義悉くは見真実以前にとかれたものであるから、
真実ではない。

(《文明の創造》〔霊界に於ける夜昼の転換〕より)

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い か   し か    とこしえ
生き変わり 死に変わりつつ永 久 の
ikikawari shinikawari tsutsu tokoshieno
        
いのち ぬし ひと
生命 の主 は人 にぞあるなり
inochi no nushi wa hito ni zoarunari

In repeating
The process of birth and death,
The spirit of man
Is eternal.

生死輪迴
永久生命之主
是人

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若這世界無惡

およそ人間一切の不幸の原因を突きつめてみると、
ことごとく悪にあることは今更いうまでもないが、
そこでも私は
この世界からもし悪が無くなるとしたらという仮定の下に、
想像してかいてみたのである。
それはまず第一病人がなくなることで、
誰も彼も健康に恵まれ、
仕事を休むようなことはなくなってしまう。
いつもいう通り病人の出来る原因は医学の誤りにあるので、
いわば善意の罪悪であるから、
結果からいえばやはり悪に属するわけである。
なるほど昔から医は仁術なりといって、
人の命を助ける立派な善の仕事と思っているのであるが、
実はそれは大なる錯覚でしかないのである。

従ってこのことがハッキリ分り、
是正されるとしたら、
ここに病無き世界が出来るのは当然で、
人間は年中張切って働けるから、
貧乏も争いもなくなり、幸福な家庭、
平和な社会となるのは間違いないのである。
というとまるで
牡丹餅(ぼたもち)で頬(ほっ)ペタを叩かれたようなうますぎる話だが、
ここに困ることがある。
というのはそうなるまでには一時的ではあるが、
病気に関係ある一切の施設も機械も不要となり、
人的には医師も看護婦も、
それに付随する製薬関係者を始め、
各方面の従業者ことごとくは失業するから、
この解決が容易ならぬ問題である。
しかしこの結果国家国民に及ぼす永遠な利益を考えたら、
何としても我慢しない訳にはゆかないであろう。

その暁(あかつき)人間病気の心配がなくなるとしたら、
現在のようにヤレ風邪を引くな、
冷えるな、食物に注意しろ、栄養が肝腎だ、
外出から帰ったら含嗽(うがい)をしろ、
食前には手を洗え、衛生に注意しろ、
黴菌を防止しろなどという面倒なことは一切なくなり、
人間は何ら心配なく、伸び伸びとして多人数の中でも、
空気の悪い所でも薄着でも平気の平左(へいざ)で、
いとも朗らかに生きていられるので、
これこそ本当の自由人の生活である。
しかも毎月の生活費中医療費がなくなるだけでも、
どんなに楽になるか知れないであろう。

また各家の戸締も要らず、
汽車や電車に乗っても、
掏摸(すり)や置引の心配もなく至極気楽な旅となるであろうし、
また金借りが来ても返すに決っているから、
余裕さえあれば快く貸してやるから双方気持がいいのはもちろんであり、
何の取引でも判証文や受取なども要らないから、
手数も省(はぶ)け苦情や裁判沙汰なども起りようがなくなるし、
家族一同健康であるから物質は豊かで、
和気藹々(あいあい)たる家庭となり、
家族連れの物見遊山(ものみゆさん)なども大いに楽しみとなろう。
主人は主人で大酒を飲んだり外泊したりしないから、妻君の心配もなく、
家庭争議など昔の夢と消えてしまう。
また子供も親に見習うから教えなくとも親孝行をするし、
こうなっては民主主義も封建思想もヘチマもあったものではない。
そんな面倒臭いことは忘れてしまうからである。
 
それから警察や裁判所は、
今の十分の一で事足りるであろう。
というのは悪といえどもそう早くなくなるわけにもゆくまいから、
ヤハリある程度の争いや犯罪者も出るには出るであろうが、
今日のそれとは比較にならない程少なくなり、
ほとんどは軽犯罪くらいで済むであろう。
しかも警察官も裁判官も、
今日のような面目や感情などにこだわることなく、
至極公平に裁くと共に、
被告も嘘や誤魔化しをいわないから、
弁護士の必要もなくなり、
簡単に迅速に運ぶのはもちろん、
贈収賄などもなくなるから、
官公吏(かんこうり)、会社員、学校教員なども、
何ら気が咎(とが)めることなく、
いつも明朗であるから、仕事の能率は上り、
今までの何分の一の時間で片付くであろう。

ここで最も大きな幸(さいわい)は、
戦争がなくなることである。
戦争こそ最大なる悪であるから、
これがなくなるとしたら、
世界はあらゆる面における好変は想像もつかない程大きなものがあろう。
第一各国民の経済的負担は今より何分の一に減るであろうから、
いやでも人間は幸福となり、
住みよい社会となるのはもちろんである。
 
以上悪のなくなった世界をかいてみたのであるが、
まだ少しかき残したことがあるからかいてみるが、
まず何よりも一切の労力が何分の一に減ることである。
考えるまでもなく、
今日の社会は悪による労力の無駄は誰も気付かないが、
実は大変なものであろう。
従って悪が一割減ったとしても、
国家はそれだけ楽になる。
今年の政府予算九千九百六十億というのであるから、
一割減っただけでも約一千億はプラスになるわけで、
その割で税金も減ることになるから税金地獄からも救われるであろうし、
その上二割となり、三割となるとしたら、
金も物資もあり余って、
人間は今までの半分以下の働きで充分であるから、
まず一日三時間働けば済むことになろう。
そこで後の時間はそれぞれ自己の趣味や勉強の時間に当てればいいので、
ここに初めて人間としての生甲斐ある人生となり、
文字通り鼓腹撃壌(こふくげきじょう)の世の中となる以上、
至る所壮麗なる大建築が出来、
華麗な劇場やあらゆる娯楽機関の発達は固(もと)より、
百花爛漫(ひゃっからんまん)たるパラダイス、
山水を取入れた大国立公園や植物園、
特殊の私的庭園等々も続々出来るのはもちろん、
半公園式街路も方々に出来、交通機関の発達と相まって、
人間旅行の楽しみは今日の何倍となるであろうし、
壮麗な美術の殿堂は、
各国競って設けることになるから、
文化の光は地上に漲(みなぎ)るであろう。
 
そうして人間は健康と肉体美増進のためと、
競争意識を満足させるため等でスポーツは益々旺(さか)んになり、
大グランドは各地に設置されるであろう。
以上のごとき世界となるとしたら人間は今日のごとく機械的に扱われることなく、
自己意識のままに働くからむしろ楽しみとさえなるのである。
また食生活においてもその進歩は素晴しく、
豊富なる食料と調理の進歩と相まって、
一般人民の食生活は現在とは比較にならない程改善されるであろう。
 
まずザットかいただけでこのくらいであるが、
これを読む人はなるほどそうなったら結構には違いないが、
それは単なる夢であって、
実現の可能性はあるわけがないから、
絵にかいた御馳走にすぎないというかも知れないが、
私はその可能を断言するのである。
それには前記のごとく悪の絶滅が根本条件であるから問題はそれ次第である。
ところがそれこそ今や正に来たらんとする最後の審判であって、
これによって悪は全く追放されるのである。
ただそうなるまでには一大難関があるので、
それを突破してこそ真の幸福者となるのである。
その救いとして現われたのが我救世教であるから、
本教こそ幸福の門を開く鍵である。

『栄光』197号、昭和28(1953)年2月25日発行

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今日の世相をつくづく見てみると、
不可解な点が余りに多いのは、
何がためかをかいてみよう。
それには色々あろうが、
その第一は近頃のごとく各地に大中小の火災の多い事で、
その損害高も相当の額に上るというのである。
これには人間に分らない何かの原因がなくてはならないと
誰しも思うであろうし、
その他交通事故にしても、
ヤレ衝突、脱線、墜落等々、
その都度(つど)人畜の被害も中々馬鹿にはならないものがある。
その他最も悪質なものとしては、
つまらぬ事で喧嘩、殴合(なぐりあ)い、殺傷沙汰など、
人間の命を余りに軽く見過ぎる態(ざま)は、
普通の頭では解釈出来ない。
また僅かな金を奪(と)るために簡単に人を殺すなどもそうで、
彼(か)の運チャンの首を締めて、
僅か千円か二千円の金を奪うなど、
人の命を見る事敝履(へいり)のごとしである。
 
右は男性に関する事だが、
女性の方も感心出来ない事が沢山ある。
その中で最も情ないと思うのは貞操観念の低下である。
吾々としても封建時代のような堅苦しい事は言いたくないが、
その反動でもあろうが現在のようではどう考えても行過ぎとしか思えない。
近頃町を歩いても、
公々然とむしろ誇らし気に
パンパン嬢が外国兵と腕を組んで横行している有様は、
これらも止むを得ないという理屈もあろうが、
一種の国辱的感がするのは誰しもそうであろう。
これをたとえてみると
人間の肉体の汚いところは出来るだけ人に見せないようにするのが本当である。
 
以上は気の付いたままかいたのであるが、
ではこれらの原因は一体どこにあるかというと、
これこそ吾々の神霊医学を通して見ればよく分る。
それは今日の人間程薬を多く用ゆる時代はなかったであろう。
つまり薬を多量に体内へ入れ、
一方近代文化生活は頭脳を酷使するため、
薬という毒物は頭脳目掛けて集溜し固結する。
その個所は後頭部及び延髄付近であるから、
どんな人でも右の部を触れば必ず判ると共に、
それが溶けるための微熱も必ずある。
そこでその固結が脳の血管を圧迫するため、
常に軽い脳貧血が起っていると共に、
微熱は脳に影響して脳の活動を鈍らす。
そのような訳で今日の人間は頭が痛い、重い、ボンヤリする、
焦々(イライラ)する、考えが纏(まとま)らない、
気が塞(ふさ)ぐ、悲観的となる、
というような症状のない人はほとんどあるまい。
これを医学では神経衰弱というのである。
そうして薬毒の固結排除活動が発(おこ)る。
すなわち浄化作用である。

これが感冒、下痢、胃病、肺病、心臓病、不眠、精神病、
赤痢、疫痢等の原因となるに対し医学では
全然分らないから逆な療法を施(ほどこ)す以上、
増えるとも減るはずはないのである。
ところがこの原理が徹底的に分る所は我救世教より外になく、
しかもそれを完全に治す方法が我浄霊医術であるから、
何が何でも右の症状のある人は、
まず薬をやめて本教へ来る事である。
それによって右の苦痛は拭(ぬぐ)ったように去り、
明朗愉快な人生を送り得ると共に、
社会的には事故、犯罪、貧乏、争い等々解消するとしたら、
これが地上天国を作る宗教でなくて何であろう。

(注)
敝履(へいり)、破れたくつ。使い物にならないはき物。

『栄光』214号、昭和28(1953)年6月24日発行

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これについて私は二十数年前から唱えて来たのだが、
もちろんそれは霊界のことであって、
何千年来夜であった世界は、
約百年前から明らかに昼の世界への転換が始ったことである。

そうして夜は月の精であるから冷いが、
昼は太陽の精であるから暖いに決っている。
もちろん霊的ではあるが、
それは体的にも相当影響するもので、
これについて面白いことには私自身である。

私が冬の寒い部屋にいると、
時の経つにつれて段々部屋が暖くなってくる。
これは人にもよくいわれるが、
私自身も一つ部屋に長くいると段々熱くなって来るのがよくわかるので、
ああそうだと気の付くことがよくある。
 
これはいつもいうことだが、
私の腹の中には光の玉があって、
それから発する光の熱は割合強いのである。
また私が数百人または数千人の信者に対(むか)って、
片方の掌を翳(かざ)し浄霊するや、
熱いので発汗する人がよくある。
これは本人の直話(じきわ)であるから間違はない。
それについては昔からある色々な信仰療法にしても、
今までの宗教はことごとく月の神様の守護で、
月は冷であるから医学と同様毒素を固める方法でしかなかったのである。
 
ところが本教は初めて生まれた日の神様の守護であるから、
右とは反対に熱で毒素を溶かし、
排除させる方法であって、
根本的に異(ちが)っている。
これについて去る十二月十五日NHKラジオ放送学校新聞の項目中に、
下記のごとき地球の暖くなったことを各国の科学者が報告している。

「気候は昔よりも暖(あたたか)になって来たと言われています。
このところ東京で朝晩寒い日が続いておりますが、
全体としてみますと、
気候は昔よりも、
暖になって来たと言われています。
前にもこの時間でお伝えしたことがありますが、
最近アメリカのある新聞が伝えるところによりますと
デンマークの王室地理学会では地球の気温がだんだんと高くなって来ていることと、
その原因は太陽から地球にそそぐ熱が
(これを輻射熱(ふくしゃねつ)と申しますが)
前よりも強くなったためであると発表しております。

そこで、南アメリカのチリで、
アルドリッチという学者が一万六千回にわたって
太陽から地球にそそぐ熱を測って調べてみたところ、
気候が暖になるのに充分な程太陽の輻射熱が強くなっていることが判ったということです。
 
一方スウェーデンのアールマンという学者も各地で集めた資料に基(もとず)いて、
世界の気候がだんだん暖になって来たことを証明することができると言っています。
このアールマンさんの報告によりますと、
北の方の都会で一年の内、温度が氷点下になる日数を調べたのち、
七十五年前の記録と比べて見ますと、
昔の僅か半分くらいになっているということです。
 
また北極圏にある、
グリーンランドの氷がだんだん溶けて行くことは大分前から判っておりますし、
ロシアの北の白海や、
スカンジナビア半島の東のボスニア湾では、
昔よりも海が凍る期間が短くなっており、
一年の内、船が航海できる期間が三、四週間くらい長くなっているということです。
なおアメリカのウィスコンシン大学の教授で、
動物学者のヒッキーさんも野性の動物について調べた結果、
気候が暖になったことを認めています。
ヒッキーさんのお話によりますと、
アメリカでもヨーロッパでも北の方に棲む動物の数がだんだん増えており、
特にアメリカでは今から三十年くらい前から北の方に棲む動物の数が
急に増えたということです。」

 
これでみても地球の温度の上昇しつつあることは、
科学的にも証明された訳で、
これを見たらいかなる無神論者といえども何ら疑う余地はあるまい。

(注)
白海(はっかい)
ロシア連邦北西部にある、バレンツ海の属海。ニシン・サケ・タラなどの漁場。冬季は氷結。運河によってオネガ湖・ラドガ湖を経てバルト海につながる。

『栄光』190号、昭和28(1953)年1月7日発行

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奇蹟とは何ぞや

一体奇蹟なるものは、
何であるかというと、
もちろんあり得べからざる事が現実にある事をいうのであって、
それが理屈でも科学でも経験でも解釈出来ないところに、
奇蹟の奇蹟たるゆえんがあるのである。
しかも常時ある訳ではなく、
予期しない時と所に突如として起るので、
よく偶然と間違えられ易いのは衆知の通りである。
また奇蹟は昔から信仰者に多いとされているが、
そうばかりともいえない。
無信仰者にも往々あるにはあるが極く稀(まれ)で、
多くは見逃してしまうのが常である。
また宗教的奇蹟といっても、
宗教によって大中小様々あり、
多い少ないもあるから一様にはいえないが、
奇蹟が著しく、
数も多い程、
卓越せる宗教であるのは言うまでもない。

ところが我救世教に至っては、
奇蹟の多い事は恐らく世界に例があるまい。
全く奇蹟の宗教といってよかろう。
そうして社会一般の通念からいえば、
信仰心が強ければ強い程、
奇蹟的現当利益に富むとされているが、
その点本教は大いに異(ちが)っており、
むしろ反対である。
というのは最初から神を否定し、
何程疑っても必ず奇蹟が起るのである。
例えば医師から見放された重症患者が本教へ来る場合、
疑ぐり抜いても効果に変りはない。
すなわち浄霊を受けるや忽(たちま)ちにして偉効現われ、
愕然(がくぜん)とするのである。
また本教信者に繋がりのある近親者なら、
信仰がなくとも奇蹟的恩恵を受ける事もしばしばある。

では以上のごとき奇蹟の本体は何かというともちろん偶然は一つもない。
起るべき理由があって起るので、
それをこれからかいてみるが、
現代人に分り易くするため、
科学の方式に則(のっと)って説明してみよう。
まず科学上新しい発明発見をしようとする場合、
最初理論科学が出来、
それを基本として実験科学に移り、
実検の結果その裏付けとなるべき物的現象が現われ、
初めて確認されるのである。
彼(か)の湯川博士の中間子論にしてもそうで、
氏の発見した理論科学の裏付けとなったのが、
一米国の科学者がたまたま宇宙線撮影の際、
数個の核が映ったので、これが中間子と分り、
ここに世界的発見となったのである。
ところが私はそれと同様どころか、
むしろそれ以上で理論と実際とを同時に発見し把握したのである。
すなわち神霊理論科学とその裏付けとしての実証である。
それが本著に載せてある百二十の実例〔略〕で、
これが全部本人手記であるとしたら、
何をか言わんやである。
ゆえに信仰は別としても、
科学的に証明されたのであるから、
これこそ現代科学のレベルを遥かに抜いた最高科学といっても過言ではあるまい。
実に文化史上空前の大問題が提供された訳である。

『世界救世教奇蹟集』昭和28(1953)年9月10日発行

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にち つき    さか     わざ
日 に月 に いや栄 えゆくわが業 の
nichini tsukini iyasakeyuku waga waza no

ちから  まこと   で
力   は誠   に 出でければなり
chikara wa makoto ni detekereba nari

The power of my work,
Which continues to flourish
Day by day and month by month,
Originates in Makoto.

神業的力量
源自於真誠
日以繼夜地顯耀

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かみ     ただ  みち まも ひと
神 をおそれ 正 しき道 を守 る人
kami wo osore tadashiki michi wo mamoru hito

つく  われ しめい
創 るぞ吾 の使命 なるらん
tsukuruzo ware no shimei naru ran

My mission
Is fostering people
Who revere God
And follow the righteous path.


我的使命是
創造
敬畏神
遵循正道的人


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http://ja.wikipedia.org/wiki/マクロビオティック

マクロビオティック (Macrobiotic) は、
マクロ+ビオティックの合成語である。

語源は古代ギリシャ語「マクロビオス」で、
意味は「健康による長寿」「偉大な生命」などとなる。

18世紀末のヨーロッパでは長寿法という意味合いで使用された。
第二世界大戦前後に桜沢如一が、
自ら考案した食生活法や食事療法の名称として広めたことから、
現在ではこの意味で用いられることがほとんどである。

「玄米菜食」「穀物菜食」「自然食」「正食」」
「マクロビ」「マクロ」「マクロビオティックス」
「マクロバイオティック」「マクロバイオティックス」として
紹介されることも多い。
また、マクロビオティックを実践している人のことは、
マクロビアンと呼ばれることもある[要出典]。

概要

マクロビオティックは、
日本古来の玄米を主食、
野菜や漬物や乾物などを副食とすることを基本とし、
独自の陰陽論を元に食材や調理法のバランスを考える食事法である。
現在では桜沢の説を土台として、
さまざまな分派が林立している。

共通する食事法の特徴
玄米や雑穀、全粒粉の小麦製品などを主食とする。
砂糖、化学調味料を使わない
(水飴・甘酒・甜菜糖・メープルシロップなどで代用)。
肉類や乳製品は使わない。
なるべく近隣の地域でとれた有機農産物を使用する。
丸ごとの野菜・果物、小魚などが身体によいとされ、
野菜の根や皮まで使い切る。
食品のアクやえぐみを取り除くことも原則禁止となっている。

当初、桜沢は鳥・魚・卵を少しなら食べてもよいとしていたが、
晩年にそれらも食べない菜食が正しいという見解に到っている。
穀物を主食として副食と明確に分離するという日本の伝統的な食事は、
医学的、栄養学的にも優れていると世界中で見直されている。
玄米に多くの栄養素がバランスよく含まれていることは、
現代の栄養学でも認められている。

マクロビオティックは、
食育で著名な明治時代の薬剤監であり医者であった石塚左玄の考え方を基盤としている。
桜沢は左玄の結成した食養会で活躍することを通して食事療法(食養)を学び、
この食養を独自に研究し深めた。

石塚左玄の食養論

1. 食本主義 
「食は元なり、体は末なり、
心はまたその末なり」と、
心身の病気の原因は食にあるとした。

2. 人類穀食動物論 
人間の歯は、穀物を噛む臼歯20本、
菜類を噛みきる門歯8本、
肉を噛む犬歯4本なので、
人類は穀食動物である。

3. 身土不二 
居住地の自然環境に適合している主産物を主食に、
副産物を副食にすることで心身もまた環境に調和する。

4. 陰陽調和 
当時の西洋栄養学では軽視されていたミネラルのナトリウム(塩分)とカリウムに注目し、
さらにそのバランスが崩れすぎれば病気になるとした。

5. 一物全体 
一つの食品を丸ごと食べることで陰陽のバランスが保たれる。
「白い米は粕である」と玄米を主食としてすすめた。

桜沢はナトリウムとカリウムの量と陰陽論をヒントに、
食品を「陰性」「中庸」「陽性」に分類した。

ただし、彼の分類は、
中医学の陰陽論に基づく分類とはかなり異なる。
具体的には、
産地の寒暖や形而上の特徴から
牛乳・ミカン類・トマト・ナス・ほうれん草・熱帯産果実・カリウムの多いものなどを「陰性」とした。
玄米は「中庸」、
塩や味噌・醤油・肉などナトリウムの多いものは「陽性」とした。

さらに、陰陽思想を食のみならず、
生活のあらゆる場面で基礎とすべく、
万物を陰と陽に分類する無双原理という哲学を提唱した。
そして、この独自の哲学を含む食生活運動へと発展させた。
ただし、恣意的に陰陽をわりあてているのではないかと宗教学者から指摘されている。

また、食養会では、
当時は天皇制であったため米はウカノミタマや天皇家の象徴であり神聖であるとして食養を奨励し、
国家神道や八紘一宇の世界観から平和的な世界統一観を主張している。
マクロビオティックはこのような側面を持ち合わせていることから、
「実質として宗教と見なすこともできる」と指摘されている。

その後の運動の展開としては、
久司道夫、菊池富美雄、相原ヘルマンらが主に海外で、
大森英桜、岡田周三らが主に国内で広めた。

海外での展開と逆輸入

桜沢はこれを広めるべく1929年に渡仏、
1960年代に渡米して、
弟子の久司道夫らとともに「禅の思想である」と唱えて普及し、
ニューエイジの信奉者らにカルト的人気を博した。

アメリカでは、ヒッピー達の健康状態への関心と、
従来の欧米型食生活が生活習慣病の増加をもたらしているとの反省から、
1977年に「アメリカの食事目標(マクガバン・レポート)」が打ち出され、
それを機に伝統的な和食への関心が高まり、
同時にマクロビオティックの考え方も見直されるようになった。

国内では、近年になって歌手のマドンナや、
トム・クルーズらが愛好家として雑誌等で紹介され、
注目され始めた。
そして、健康食ブームに伴って、
カフェができたり、ムックなどの各種出版物が刊行されたりするなど、
注目が集まった。

現代のマクロビオティック論者の中には、
医学や栄養学の発達と同期して、
現代栄養学を取り入れて説明するという変化もある。

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二十八部衆(にじゅうはちぶしゅう)は、
千手観音の眷属。

千手観音(せんじゅかんのん)は、
仏教における信仰対象である菩薩の一つ。

サンスクリットでは
サハスラブジャ(Sahasrabhuja-arya-avalokiteśvara)と言い、
文字通り「千の手をもつもの」の意味である。

インドでヒンドゥー教の影響を受けて成立した
観音菩薩の変化身(へんげしん)の一つであり、
六観音の一つでもある。

日本語では「十一面千手観音」、
「千手千眼(せんげん)観音」
「十一面千手千眼観音」などさまざまな呼び方がある。

「千手千眼」の名は、
千本の手のそれぞれの掌に一眼をもつとされることから来ている。
千本の手は、どのような衆生をも漏らさず救済しようとする、
観音の慈悲と力の広大さを表わしている。
観音菩薩が千の手を得た謂われとして、
伽梵達摩訳『千手千眼觀世音菩薩廣大圓滿無礙大悲心陀羅尼經』がある。
この経の中に置かれた
大悲心陀羅尼は現在でも中国や日本の禅宗寺院で読誦されている。

東西南北と上下に各四部、
北東・東南・北西・西南に各一部づつが配されており、
合計で二十八部衆となる。

典拠

典拠となる経典は
『千手観音造次第法儀軌』(善無畏 637年-735年訳)であるが、
よく読んでみると一部に二つ三つの名前が入っていたり、
第二十一番目には「二十八部大仙衆」があったりと、
経典の作者がかなりいい加減に「二十八部」を作り上げていたことがわかる。
この経典は弘法大師によって日本に持ち込まれて普及した。
しかし中国など日本以外の地域ではほとんど広まらなかった。

『儀軌』は、
『千手陀羅尼経』(伽梵達磨 650年-655年ごろ訳)の偈文に
連ねられている一切善神と一部の誤字を除いて一致するために、
これをもとのサンスクリットを
あまり理解しないまま写したものだと考えられている。

しかし当の『陀羅尼経』には
どこにも「一切善神」が二十八部であるとは書かれていない。
このことを指摘し、
おおよそ正確に本来のサンスクリットと
対照して四十九部に修正したのが日本の僧侶定深による『千手経二十八部衆釈』
(1108年ごろ)であるが、
それ以外はほとんど省みられなかった。


1. 密迹金剛(みっしゃこんごう)
2. 那羅延堅固(ならえんけんご)
3. 東方天(とうほうてん)
4. 毘楼勒叉天(びるろくしゃてん)
5. 毘楼博叉天(びるばくしゃてん)
6. 毘沙門天(びしゃもんてん)
7. 梵天(ぼんてん)
8. 帝釈天(たいしゃくてん)
9. 畢婆迦羅王(ひばからおう)
10. 五部浄居天(ごぶじょうごてん)
11. 沙羯羅王(しゃがらおう)
12. 阿修羅王(あしゅらおう)
13. 乾闥婆王(けんだつばおう)
14. 迦楼羅王(かるらおう)
15. 緊那羅王(きんならおう)
16. 摩侯羅迦王(まごらかおう)
17. 金大王(こんだいおう)
18. 満仙王(まんせんおう)
19. 金毘羅王(こんぴらおう)
20. 満善車王(まんぜんしゃおう)
21. 金色孔雀王(こんじきくじゃくおう、孔雀明王)
22. 大弁功徳天(だいべんくどくてん)
23. 神母天(じんもてん)
24. 散脂大将(さんじたいしょう)
25. 難陀竜王(なんだりゅうおう)
26. 摩醯首羅王(まけいしゅらおう)
27. 婆藪仙人(ばすせんにん)
28. 摩和羅女(まわらにょ)

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呼称

本名(俗名)はゴータマ・シッダッタ(パーリ語: Gotama Siddhattha)
またはガウタマ・シッダールタ(梵:Gautama siddhaartha)、
漢訳では瞿曇 悉達多(くどん しっだった)と伝えられる。


「釈迦」は釈迦牟尼(しゃかむに)
(梵:zaakya-muni、シャーキャ・ムニ)の略である。

釈迦は彼の部族名もしくは国名で、
牟尼は聖者・修行者の意味。
つまり釈迦牟尼は、「釈迦族の聖者」などとなる。

称号を加え、
釈迦牟尼世尊、
釈迦牟尼仏陀、
釈迦牟尼仏、
釈迦牟尼如来ともいう。
略して釈迦尊、釈尊(しゃくそん)、
釈迦仏、
釈迦如来ともいう。
ただし、
これらはあくまで仏教の視点からの呼称である。

称号だけを残し、
世尊、仏陀、ブッダ、如来とも略す。
ただし、仏教では仏陀・世尊・如来は釈迦牟尼だけではない。
特に浄土真宗では単に如来というと阿弥陀如来を指すことも少なくない。

巷間では、
お釈迦様、仏様(ほとけさま)と呼ばれることが多い。
ただし、仏様は死者の意味に使われることも多い。

仏典ではこの他にも多くの異名を持つ。
うち代表的な10個(どの10個かは一定しない)を総称して「十号」と呼ぶ。
呼称表
▪ 釈迦牟尼世尊
▪ 釈迦尊
▪ 釈尊(しゃくそん)
▪ 釈迦牟尼仏陀
▪ 釈迦牟尼仏
▪ 釈迦仏
▪ 釈迦牟尼如来
▪ 釈迦如来

生涯
釈迦は紀元前5世紀頃、
現在のネパールにいた釈迦族に生まれ、
王子として裕福な生活を送っていたが、2
9歳で出家した。
35歳で正覚(覚り)を開き、
仏陀(覚者)となった。
これを成道という。
仏陀は自らの覚りを人々に説いて廻り、
一説において2月15日安祥として80歳で入滅(死去)した。

誕生
釈迦は現在のネパールのカピラヴァストゥ(kapila-vastu)で釈迦族の中心地、
迦毘羅衛国を形成していた釈迦族の出身である。
釈迦の故郷であるこのカピラヴァスツは
今のネパールのタライ地方 (tarai) の
ティロリコート (tilori-kot) 付近を中心とする小さな共和制の国で、
当時の二大強国マガタとコーサラの間にはさまれた国であった。
家柄は王 (raaja) とよばれる名門であった。
このカピラヴァスツ・迦毘羅衛国の城主、
浄飯王(じょうぼんのう、シュッドーダナ Zddhodana)を父とし、
隣国の同じ釈迦族のコーリヤの
執政アヌシャーキャの娘・摩耶夫人(まやぶにん、マーヤー maayaa)を母として生まれ、
ゴータマ・シッダッタ(瞿曇・悉達多)
((梵)Gautama siddhaartha、(パ)Gotama Siddhattha)と名づけられた。

ゴータマは「最上の牛」を意味する言葉で、
シッダッタ(シッダールタ)は目的を達したものという意味である。
ゴータマは母親がお産のために実家へ里帰りする途中、
藍毘尼(ルンビニ lumbini) の花園で休んだ時に誕生した。
生後一週間で母の摩耶は亡くなり、
その後は母の妹、
摩訶波闍波提(まかはじゃはだい、マハープラジャパティー mahaaprajapatii)によって育てられた。
当時は姉妹婚の風習があったことから、
摩耶も摩訶波闍波提も浄飯王の妃だった可能性がある。

釈迦の生まれた年代に最新の研究をもってしても
100年もの誤差が生じるのは輪廻転生の考えから
時間というものがさほど必要なものではないと考えられていたため、
文献に表示されていないことによる。
インドなどの詳細は中国の文献によって知ることができる。

釈迦は、産まれた途端、
七歩歩いて右手で天を指し
左手で地を指して「天上天下唯我独尊」と話したと伝えられている。

釈迦は浄飯王らの期待を一身に集め、
二つの専用宮殿や贅沢な衣服・世話係・教師などを与えられ、
クシャトリヤの教養と体力を身につけた、
多感でしかも聡明な立派な青年として育った。
16歳で母方の従妹の耶輸陀羅(やしゅだら、ヤショーダラー yazodharaa)と結婚し、
一子、羅睺羅(らごら、ラーフラ raahula意味は
日食、月食など食を起こす魔神ラーフ転じて障害をなすもの)をもうけた。
なお妃の名前は、他に摩奴陀羅(マノーダラー)、喬比迦(ゴーピカー)、
密里我惹(ムリガジャー)なども見受けられ、
それらの妃との間に善星(善星、スナカッタ)や優波摩那(ウパヴァーナ)を生んだという説もある。

出家
当時のインドでは、
ウパニシャッド哲学を基盤としながら、
ヴェーダ経典の権威を認めない六師外道と称される六人の思想家達、
ジャイナ教の始祖となったニガンダ等が既成のバラモンを否定し、
自由な思想を展開していた。
また社会的にも16の大国、
多くの小国が争いを繰り広げ、
混乱の度を増すさなかにあった。

釈迦出家の動機は、
釈迦族が農耕民族であったため、
幼少の頃に田畑の虫をついばむ鳥を見たことなどに
より日常的にこの世の無常を感じていたが、
決定的となったのは四門出遊の故事である。
ある時、釈迦が迦毘羅衛城の東門から出る時老人に会い、
南門より出る時病人に会い、
西門を出る時死者に会い、
生ある故に老も病も死もある(生老病死:四苦)と
無常を感じた。
北門から出た時に一人の出家沙門に出会い、
世俗の苦や汚れを離れた沙門の清らかな姿を見て、
出家の意志を持つようになった。

私生活において、
一子羅睺羅をもうけたことで、
かねてよりの念願の出家の志を29歳、
12月8日夜半、王宮を抜け出て果たした。
出家してまず跋伽婆(バッカバ)仙人を訪れ、
その苦行を観察するも、
その結果、
死後に天上に生まれ変わることを最終的な目標としていたので、
天上界の幸いも尽きればまた六道に輪廻すると悟った。

次に阿羅邏迦藍(アーラーラ・カーラーマ)を訪れ、
彼が空無辺処(あるいは無所有処)が最高の悟りだと思い込んでいるが、
それでは人の煩悩を救う事は出来ないことを悟った。

次に鬱頭蘭弗(ウッダカラーマ・プッタ)を訪れたが、
それも非想非非想処を得るだけで、
真の悟りを得る道ではないことを覚った。

この三人の師は、
釈迦が優れたる資質であることを知り後継者としたいと願うも、
釈迦自身はすべて悟りを得る道ではないとして辞した。

そしてウルヴェーラの林へ入ると、
父・浄飯王は釈迦の警護も兼ねて五比丘(ごびく)といわれる5人の沙門を同行させた。
そして出家して6年(一説には7年)の修行の間、
苦行を積んだ。
減食、絶食等、座ろうとすれば後ろへ倒れ、
立とうとすれば前に倒れるほど厳しい修行を行ったが、
心身を極度に消耗するのみで、
人生の苦を根本的に解決することはできないと悟って難行苦行を捨てたといわれている。
その際、この五比丘たちは釈迦が苦行に耐えられず修行を放棄したと思い、
釈迦をおいて鹿野苑(ろくやおん、ムリガダーヴァ)へ去った。

成道
そこで釈迦は、
全く新たな独自の道を歩むこととする。
尼連禅河(にれんぜんが、ネーランジャナー nairaJjanaa)で沐浴し、
村娘スジャータの乳糜(牛乳で作ったかゆ)の布施を受け、
気力の回復を図って、
ガヤー村のピッパラ (pippala) 樹(後に菩提樹と言われる)の下で、
49日間の観想に入った。
そして、ついに12月8日の未明に大悟する。
これを「成道」といい、
古来この日に「成道会(じょうどうえ)」を勤修した。
ガヤー村は、仏陀の悟った場所という意味の、
ブッダガヤ(仏陀伽耶)と呼ばれるようになった。

釈迦は、
この悟りを得た喜びの中で、
このまま浸っていようと考えた。
一部の経典には「このまま無余涅槃に至ろうと考えた」との記述があることから、
3カ月間禅定にあるまま死を迎えようとされたと思われた。
ところが梵天によって衆生に説くよう勧められた(梵天勧請)。
3度の勧請の末、
自らの悟りへの確信を求めるためにも、
ともに苦行をしていた5人の仲間に説こうと座を立った。
釈迦は彼らの住むバーラーナシー (baaraaNsii) まで、
自らの悟りの正しさを十二因縁の形で確認しながら歩んだ。

そこで釈迦は鹿野苑へ向かい、
初めて五比丘にその方法論四諦八正道を実践的に説いた。
これを初転法輪(しょてんぽうりん)と呼ぶ。
この5人の比丘は、
当初は釈迦が苦行を止めたとして蔑んでいたが、
説法を聞くうちコンダンニャがすぐに悟りを得、
釈迦は喜んだ。
この時初めて、
釈迦は如来(タターガタ tathaagata)という語を使った。
すなわち「ありのままに来る者」
「真理のままに歩む者」という意味である。
それは、現実のありのままの姿 実相 を観じていく事を意味している。

初転法輪を終わって
「世に六阿羅漢((漢)応供、(梵)arhan)あり。
その一人は自分である」と言い、
ともに同じ悟りを得た者と言った。
次いでバーラーナシーの長者、
耶舎 (yazas) に対して正しい因果の法を次第説法し、
彼の家族や友人を教化した。
古い戒律に「世に六十一阿羅漢あり、
その一人は自分だと宣言された」と伝えられている。

教団
その後、
耶舎(ヤシャス、やしゃ)や富楼那(プルナ、ふるな)などを次々と教下したが、
初期の釈迦仏教教団において最も特筆すべきは、
三迦葉(さんかしょう)といわれる三人の兄弟が仏教に改宗したことである。
当時有名だった事火外道(じかげどう)の、
ウルヴェーラ・カッサパ (uruvela kassapa)、
ナディー・カッサパ (nadi kassapa)、
ガヤー・カッサパ (gayaa kassapa) を教化して、
千人以上の構成員を持つようになり、
一気に仏教は大教団化した。

ついで王舎城(ラージャグリハ raajagRha)に向かって進み、
ガヤ山頂で町を見下ろして「一切は燃えている。
煩悩の炎によって汝自身も汝らの世界も燃えさかっている」と言い、
煩悩の吹き消された状態としての涅槃を求めることを教えた。

王舎城に入って、
頻婆娑羅(びんばしゃら、ビンビサーラ bimbisaara)王との約束を果たし教化する。
王はこれを喜び竹林精舎 (veNuuvana-vihaara) を寄進する。
ほどなく釈迦のもとに二人のすぐれた弟子が現れる。
その一人は舎利弗(シャーリプトラ zaariputra)であり、
もう一人は目連(マウドゥガリヤーヤナ maudgalyaayana)であった。
この二人は後に釈尊の高弟とし、
前者は知恵第一、
後者は神通第一といわれたが、
この二人は釈尊の弟子で、
最初に教下された五比丘の一人であるアッサジ (assaji) 比丘によって釈迦の偉大さを知り、
弟子250人とともに帰依した。
その後、舎利弗は叔父の摩訶・倶絺羅(まか・くちら、長爪・梵士=婆羅門とも)を教化した。
この頃に摩訶迦葉(マハーカッサパ mahaakassapa)が釈迦の弟子になった。

以上がおおよそ釈迦成道後の2年ないし4年間の状態であったと思われる。
この間は大体、
王舎城を中心としての伝道生活が行なわれていた。
すなわち、マガダ国の群臣や村長や家長、
それ以外にバラモンやジャイナ教の信者とだんだんと帰依した。
このようにして、
教団の構成員はだんだんと増加し、
ここに教団の秩序を保つために、
いろいろの戒律が設けられるようになった。

伝道の範囲
これより後、
最後の一年間まで釈尊がどのように伝道生活を送られたかはじゅうぶんには明らかではない。
経典をたどると、故国カピラヴァスツの訪問によって、
釈迦族の王子や子弟たちである、
羅睺羅、阿難(アーナンダ aananda)、阿那律(アニルッダ aniruddha)、
提婆達多(デーヴァダッタ devadatta)、
またスードラの出身である優波離(ウパーリ upaali)が先んじて弟子となり、
諸王子を差し置いてその上首となるなど、
釈迦族から仏弟子となる者が続出した。
またコーサラ国を訪ね、
ガンジス河を遡って西方地域へも足を延ばした。
たとえはクル国 (kuru) のカンマーサダンマ (kammaasadamma) や、
ヴァンサ国 (vaMsa) のコーサンビー (kosaambii) などである。
成道後14年目の安居はコーサラ国の舎衛城(シュラーヴァスティー zraavastii)の祇園精舎で開かれた。

このように釈迦の教化され伝道された地域をみると、
ほとんどガンジス中流地域を包んでいる。
アンガ (aGga)、マガダ (magadha)、ヴァッジ (vajji)、
マトゥラー (mathura)、コーサラ (kosalaa)、
クル (kuru)、パンチャーラー (paJcaalaa)、ヴァンサ (vaMsa) などの諸国に及んでおり、
弟子となった人々の地域もこれらの範囲であったと思われる。

入滅
釈迦の伝記の中で最も克明に今日記録として残されているのは、
入滅前1年間の事歴である。
漢訳の長阿含経の中の「遊行経」とそれらの異訳、
またパーリ所伝の大般涅槃経 ((パ)mahaaparinibbanna-sutta) などの記録である。

涅槃の前年の雨期は舎衛国の祇園精舎で安居が開かれた。
釈迦最後の伝道は王舎城の竹林精舎から始められたといわれているから、
前年の安居を終わって釈迦はカピラヴァスツに立ち寄り、
コーサラ国王波斯匿王(はしのくおう、プラセーナジット prasenajit)の訪問をうけ、
最後の伝道が王舎城から開始されることになったのであろう。

このプラセーナジットの留守中、
コーサラ国では王子が兵をあげて王位を奪い、
毘瑠璃王(ヴィルーダカ viruuDhaka)となった。
そこでプラセーナジットは、
やむなく王女が嫁していたマガダ国の阿闍世王(アジャータシャトゥル ajaatazatru)を頼って向かったが、
城門に達する直前に亡くなったといわれている。
当時、釈迦と同年配であったといわれる。

ヴィルーダカは王位を奪うと、
即座にカピラヴァスツの攻略にむかう。
この時、釈迦はまだカピラヴァスツに残っていた。
故国を急襲する軍を、
道筋の樹下に座って三度阻止したが、
宿因の止め難きを覚り、
四度目にしてついにカピラヴァスツは攻略された。
しかし、
またこのヴィルーダカも河で戦勝の宴の最中に洪水(または落雷とも)によって
死んだと記録されている。
かくして釈迦はカピラヴァスツから南下してマガダ国の王舎城に着き、
しばらく留まった。

釈迦は多くの弟子を従え、
王舎城から最後の旅に出た。
アンバラッティカ ((パ)ambalaTThika) へ、
ナーランダ((パ)naalanda) を通ってパータリガーマ ((パ)paaTaligaama) に着いた。
ここは後のマガダ国の首都となるパータリプトラ (paataliputra) であり、
現在のパトナである。
ここで釈迦は破戒の損失と持戒の利益とを説いた。

釈迦はこのパータリプトラを後にして、
増水していたガンジス河を無事渡りヴァッジ国のコーリー城に着いた。
ここで亡くなった人々の運命について、
阿難の質問に答えながら、
最後に人々が運命を知る標準となるものとして法鏡の説法をする。
釈迦はこの法鏡を説いてから、
四諦を説いて「苦悩と苦悩の起源と、苦悩の絶滅と苦悩の絶滅への道との尊い真理を洞察し悟った。
そして生存への渇望を根絶し、
生存への誘惑をうちほろぼしたから、
もはや生存に戻ることはない」と説法した。

次に釈迦は、
このコーリー城を出発しナディカガーマ (nadikagaama) を経て
ヴァイシャーリー (vaizaalii) に着いた。
ここはヴァッジ国の首都であり、
アンバパーリ (ambapaalii) という遊女のマンゴー林に滞在し、
戒律や生天の教え、
四諦を説いた。
やがてここを去ってヴェールバ (veluva) 村に進み、
ここで最後の雨期を過ごすことになる。
すなわち釈迦はここで阿難などとともに安居に入り、
他の弟子たちはそれぞれ縁故を求めて安居に入った。

この時、釈迦は死に瀕するような大病にかかった。
しかし、雨期の終わる頃には気力を回復した。
この時、阿難は釈迦の病の治ったことを喜んだ後、
「師が比丘僧伽のことについて何かを遺言しないうちは亡くなるはずはないと、
心を安らかにもつことができました」と言った。
これについて、
釈迦は「比丘僧伽は私に何を期待するのか。
私はすでに内外の区別もなく、
ことごとく法を説いた。
阿難よ、如来の教法には、
あるものを弟子に隠すということはない。
教師の握りしめた秘密の奥義(師拳)はない。……
自分はすでに八十歳の高齢となり、
自分の肉体は、
あたかも古い車がガタガタとなってあちこちを草紐で縛り、
やっと保たれているようなものである。
だから、阿難よ、汝らは、
ただみずからを灯明とし、
みずからを依処として、
他人を依処とせず、
法を灯明とし、
法を依処として、
他を依処とすることなくして、
修行せんとするものこそ、
わが比丘たちの中において最高処にあるものである」と説法した。
これが自帰依自灯明、法帰依法灯明の教えである。

やがて雨期もおわって、
釈迦は、ベーシャリーへ托鉢に出かけ、
永年しばしば訪れたウデーナ廟、
ゴータマカ廟、サーランダダ廟、
サワラ廟などを訪れられ、
托鉢から戻って、アーナンダを促してチャパラの霊場に行った。
ここで聖者の教えと神通力について説いた。

托鉢をおわって釈迦は、
これが「如来のベーシャリーの見おさめである」といわれ、
バァンダガーマ (bhandagaama) に移り四諦を説き、
さらにハッティ (hatthi)、アンバガーマ (ambagaam)、
ジャンブガーマ (jaambugaama)、ボーガガーマ (bhogagaama)を経て
パーヴァー (paavaa) に着く。
ここで四大教法を説き、
仏説が何であるかを明らかにし、
戒定慧の三学を説いた。

釈迦は、
ここで鍛冶屋の純陀(じゅんだ、チュンダ、Chunda)のために
法を説き供養を受けたが、
激しい腹痛を訴えるようになる。
カクッター河で沐浴して、
最後の歩みをクシナーラー (kusinaara) にむけ、
その近くのヒランニャバッティ河のほとりにいき、
マルラ (malla) 族のサーラの林に横たわり、
そこで入滅した。
時に紀元前386年2月15日のことであった。
これを仏滅(ぶつめつ)という。

釈迦の入滅年時については、
古来いろいろの説がある。
一般には紀元前486年(衆聖点記説)を用い、
宇井伯寿の前386年説も仏教における学会で用いられている
。腹痛の原因はスーカラマッタヴァという料理で、
豚肉、あるいは豚が探すトリュフのようなキノコであったという説もあるが定かではない。

さて、仏陀入滅の後、
その遺骸はマルラ族の手によって火葬された。
当時、釈迦に帰依していた8大国の王たちは、
仏陀の舎利を得ようとマルラ族に遺骨の分与を乞うたが、
これを拒否した。
そのため、遺骨の分配について争いが起こるが、
香姓(ドーナ dona)婆羅門の調停を得て舎利は八分され、
おくれてきたマウリヤ族の代表は灰をえて灰塔を建てた。
ちなみに、その八大国とは、
1. クシナーラーのマルラ族
2. マガダ国のアジャタシャトゥル王
3. ベーシャーリーのリッチャビ族
4. カビラヴァストフのシャーキャ族
5. アッラカッパのプリ族
6. ラーマガーマのコーリャ族
7. ヴェータデーバのバラモン
8. バーヴァーのマルラ族

である。

入減後、
弟子たちは亡き釈迦を慕い、
残された教えと戒律に従って跡を歩もうとし、
説かれた法と律とを結集(けつじゅう)した。
これらが幾多の変遷を経て、
今日の経典や律典として維持されてきたのである。

入滅後の釈迦の評価
釈迦の入滅後、
インドに於いて、
仏教勢力は拡大するかに見えた。
が、待ち受けていたのは、
ヒンドゥー教からの攻撃と弾圧であった。
ヒンドゥー教勢力からの反撃に遭った仏教は、
インドでは定着する事はできなかった。
さらに、ヒンドゥー教は追い討ちをかけるように、
釈迦に新たな解釈を与えた。釈迦は、
ヴィシュヌのアヴァターラ(化身)として地上に現れたとされたのである。
偉大なるヴェーダ聖典を悪人から遠ざける為に、
敢えて偽の宗教である仏教を広め、
人々を混乱させるために出現したとされ、
誹謗の対象にされてしまった。
この結果インドでは、
仏教は消滅への道をたどってしまった。
インドで仏教が認められるようになったのは、
インドがイギリス領になった19世紀以降である。

釈迦の聖地のある、
ネパールでも釈迦は知る人ぞ知る存在であるが、
崇拝の対象でもある。
ネパールでは現在、
ヒンドゥー教徒が86%、
仏教徒が8%となっている。

ネパールでも仏教は少数派でしかないが、
ネパールの仏教徒は聖地ルンビニへの巡礼は絶やさず行っている。
尚、ルンビニは1997年にユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録された。

仏教はその後、
上座部仏教などの部派仏教と大乗仏教とに分かれる。
そして、部派仏教と大乗仏教とでは、釈迦に対する評価自体も変わっていった。

部派仏教では、
釈迦は現世における唯一の仏とみなされている。
最高の悟りを得た仏弟子は阿羅漢(アラカン 如来十号の一)と呼ばれ、
仏である釈迦の教法によって解脱した聖者と位置づけられた。

一方、大乗仏教では、
釈迦は十方(東南西北とその中間である四隅の八方と上下)
三世(過去、未来、現在)の無量の諸仏の一仏で、
現在の娑婆(サハー、堪忍世界)の仏である、とした。

また、三身説では
仏が現世の人々の前に現れた姿であるとされている。

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伊豆能売
伊豆能売(いづのめ)は、
日本神話に登場する神である。
古事記にのみ登場し、
日本書紀には登場しない。

神話中では「伊豆能売」とだけ書かれていて、
「神」「命」などの神号はつけられていない。
神道系新宗教では伊都能売神と表記することもある。

神産みにおいてイザナギが黄泉から帰って来た際、
黄泉の穢れから禍津日神が生まれた。
その禍津日神がもたらす禍(災厄)を直すために、
直毘神二柱(神直毘神、大直毘神)と伊豆能売が生まれたとしている。

神名の「イヅ」は「厳」で、
斎み清めることを意味する。
神名に「メ」とついていることから女神とされることもあるが、
神話には性別を決定するような記述はなく、
男神と考えられることもある。

日本書紀には全く登場せず、
古事記でも出自や事跡についての記述が一切ない。
延喜式神名帳には伊豆能売を祀ったと思われる、
出雲国出雲郡の「神魂伊豆之賣神社」が記載されており、
同社は伊努神社に合祀されたとされているが、
同社の祭神に伊豆能売の名はない。
延喜式神名帳以外にこの神社について記載した史料はなく、伊
豆能売を祀る神社は現存しないことになる。

幕末以降の神道系新宗教の中には、
伊豆能売が古代には信仰されていたが後に信仰されなくなった「埋没神」であるとして、
新たに信仰の対象にしようとするものもある。

大本の出口王仁三郎は1918年ごろ『伊都能売神論』を発表した
(ただし、その後王仁三郎は伊豆能売を取り上げることはなかった)。
王仁三郎の弟子で、
世界救世教を興こした岡田茂吉は、
伊都能売神(伊都能賣神皇)は古代日本の最高神であったが、
朝鮮から日本に渡来したスサノオなどの好戦的な神を嫌い、
中国を経由してインドへ渡って観世音菩薩となり、
釈迦に仏教を伝授したのだという「逆本地垂迹(神本仏迹)」とも言える説を示した。
また、伊都能売大神は金龍となって琵琶湖に潜んでいるとも述べている。


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観音菩薩(かんのんぼさつ 觀音菩薩)は、
仏教の菩薩の一つであり、
特に日本において古代より広く信仰を集めている尊格である。

「観世音菩薩」または「観自在菩薩」ともいう。
「救世菩薩(くせぼさつ・ぐせぼさつ)」など多数の別名がある。

名称の由来
サンスクリットではアヴァローキテーシュヴァラ(Avalokiteśvara)と言い、
「Avaあまねく」「lokita見る、見た」
「iśvara自在者」という語の合成語で、
音韻変化(lokita + iśvara → lokitesvara)を含んでいるとの説が現在では優勢である。
玄奘三蔵による訳「観自在菩薩」はそれを採用していることになる。

その起源については、
ゾロアスター教のアフラ・マズダーの娘、
アナーヒターやインド神話のラクシュミーとの関連が指摘されている。

鳩摩羅什(くまらじゅう)の旧訳では観世音菩薩と言い、
当時の中国大陸での呼称も、
観世音菩薩であった。

これには、観音経(妙法蓮華経観世音菩薩普門品第二十五)の趣意を、
取って意訳したという説がある。

また、中央アジアで発見された古いサンスクリット語の『法華経』では、
「Avalokitasvara」となっており、
これに沿えば「avalokita 観」+「svara 世音」と解され、
また古訳では『光世音菩薩』の訳語もあることなどから、
異なるテキストだった可能性は否定できない。

唐の二代目皇帝李世民の名から避諱により、
”世”の文字は使用出来なくなったため、
唐時代以後の中国大陸では、
以後、観音菩薩と呼ばれるようになり定着した。

玄奘三蔵(げんじょうさんぞう)以降の新訳では観自在菩薩と訳している。

信仰・位置づけ
観音経などに基づいて広く信仰・礼拝の対象となっている。
また、般若心経の冒頭に登場する菩薩でもあり、
般若の智慧の象徴ともなっている。
浄土教では観無量寿経の説くところにより
阿弥陀如来の脇侍として勢至菩薩とともに安置されることも多い。
日本では飛鳥時代から造像例があり、
現世利益と結びつけられて、
時代・地域を問わず広く信仰されている。
持物として水瓶(すいびょう)をもつ。
そこには功徳水という、
いくら使ってもなくならない水が入っているという。



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【大阪四天王寺】
http://ja.wikipedia.org/wiki/四天王寺

四天王寺(してんのうじ)は、大阪市天王寺区にある寺院。
聖徳太子建立七大寺の一つとされている。
山号は荒陵山(あらはかさん)、本尊は救世観音(ぐぜかんのん)である。
「金光明四天王大護国寺」(こんこうみょうしてんのうだいごこくのてら)ともいう。

『日本書紀』によれば、
推古天皇元年(593年)に造立が開始されている。
当寺周辺の区名、
駅名などに使われている「天王寺」は四天王寺の略称である。
宗派はもと天台宗に属したが、
日本仏教の祖とされる聖徳太子建立の寺であり、
「日本仏教の最初の寺」として、
既存の仏教の諸宗派にはこだわらない全仏教的な立場から、
1946年に和宗総本山として独立宣言を出している。

石鳥居(重要文化財)
中心伽藍の西側、西門のさらに外に立つ。
永仁2年(1294年)、それまでの木造鳥居を石鳥居にあらためたもので、
神仏習合時代の名残である。
鳥居上部に掲げられた額には、
扁額の文字は、
「釈迦如来 転法輪処 当極楽土 東門中心」と書いてあり、
これは、
『 おシャカさんが説法を説く所であり、
ここが極楽の東門の中心である』の意です。
この額は箕の形をしており<チリトリ>のように、
全ての願いをすくいとって漏らさない阿彌陀如来の本願を現しています。
もとは木造でありましたが1294年に現在の石造となりました。
寺に鳥居は奇異に感じますが、
元来鳥居は聖地結界の四門として、
古来インドより建てられたもので神社に限ったものではありません。
ここは西の海に沈む夕陽を拝して、
極楽往生を念じる聖地であった。

中心伽藍-
仁王門、五重塔、金堂、講堂からなる中心伽藍は、
第二次世界大戦後に再建された鉄筋コンクリート造建築だが、
日本の飛鳥時代、高句麗、六朝などの建築様式を、
加味して創建当時(6世紀末)の様式に近付けようとしたものである。
設計は、建築史家藤島亥治郎(がいじろう)。
金堂本尊は江戸時代の史料には「如意輪観音」とするものが多いが、
現在は「救世観音」とされている。

五重塔ー
初代は593年建立、
現在あるものは1959年建立の八代目。
聖徳太子創建の時、六道利救の悲願を込めて、
塔の礎石心柱の中に仏舎利六粒と、
自らの髻髪(きっぱつ)六毛を納められたので、
この塔を「六道利救の塔」といいます。

塔の入口は南北にありますが、
通常開放しているのは北側のみで、
南正面に釈迦三尊の壁画と四天王の木像をお祀りしています。
なお、この中心壁と外壁の各面に描かれた仏画は、
山下摩起画伯の筆によるものです。

金堂ー
聖徳太子のご本地仏である救世観音をお祀りし、
四方を四天王が守護しています。
毎日11時より舎利出しの法儀が厳修されます。
南無仏のお舎利を以て、 ご先祖のお戒名(霊名)が書かれたお経木にあてられ、
又参詣者の頭にあててもらおうと多くの信者さんが参詣されます。
基壇下の青竜池より、白石玉出の清水が湧いており、
この水を亀井堂に引いていると云われます。
内壁には中村岳陵画伯筆の仏伝図が描かれています。

講堂ー
経典を講じたり法を説いたりする七堂伽藍の一つのお堂です。
講堂内陣は中央を境に、東を冬堂、西を夏堂と呼びます。
冬堂には現世の人々の悩みや、
苦しみを救う十一面観世音菩薩、
夏堂には来世極楽に人々を導く丈六阿彌陀如来をお祀りしています。
つまり、現世と来世の二世に亘り、
人々を安楽へ導き給うようにとの願いが講堂には込められています。
内壁には、郷倉千靭画伯による仏教東漸が描かれています。

聖霊院 ー
中心伽藍の東に位置する一画で、
「太子殿」とも言い、聖徳太子を祀る。
中心伽藍は鉄筋コンクリート造だが、
この一画は木造建築である。
中心にはそれぞれ聖徳太子像を祀る太子殿前殿と同奥殿がある。
奥殿は1979年の完成で、
一見法隆寺夢殿に似ているが、
夢殿の平面が八角形であるのに対し、
この建物の平面は完全な円形である。
また、絵堂(1983年完成)には杉本健吉筆の聖徳太子絵伝壁画がある。

六時堂(重要文化財)ー
1623年建立。
椎寺薬師堂を移建したもの。
中心伽藍の背後に位置する。
堂の手前の「亀の池」の中央にある石舞台は、
「日本三舞台」の一つとされ国の重要文化財である(他2つは、住吉大社の石舞台、厳島神社の平舞台)。
この舞台では毎年4月22日の聖霊会(しょうりょうえ、聖徳太子の命日法要)の日に雅楽が終日披露される。
四天王寺の雅楽は、宮中(京都)、南都(奈良)と共に三方楽所とされた「天王寺楽所」によって、
伝えられ、雅楽の最古の様式を持ち、
現在は「雅亮会」が伝統の様式を継承している。



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生まれた意義と生きる喜びを見つけよう!
〜探求出生的意義和生存的喜悦!

「信心といえる二字をば、
まことの心とよめるなり。
まことの心と言うは、
行者の悪き自力の心にてはたすからず。
如来の他力の心にてたすかるが故に、
まことの心と申すなり。」


【京都三十三間堂】
http://ja.wikipedia.org/wiki/三十三間堂

三十三間堂(さんじゅうさんげんどう)は京都市東山区にある仏堂。
建物の正式名称は蓮華王院本堂(れんげおういんほんどう)。
同じ京都市東山区にある天台宗妙法院の境外仏堂であり、
同院が所有・管理している。元は後白河上皇が自身の離宮内に創建した仏堂で、
本尊は千手観音である。

この地には、
後白河上皇の離宮法住寺殿があった。
広大な法住寺殿の一画に建てられたのが蓮華王院本堂、
今に言う三十三間堂である。
上皇が平清盛に命じて旧暦の長寛2年12月17日(1165年1月30日)に完成したという。
当時は五重塔なども建つ本格的な寺院だったが、
建長元年(1249)の火災で焼失。
文永3年(1266)に本堂のみが再建されている。
現在残る堂がそれである。

「三十三間堂」の名称は、
本堂の内陣の柱間が33あることによる。
ここで言う「間」(けん)は長さの単位ではなく、
社寺建築の柱間の数を表す建築用語である。
三十三間堂の柱間は12尺で、今日の間では2間に相当する。
「33」は観音に縁のある数字で、
『法華経』等に観音菩薩が33種の姿に変じて衆生を救うと説かれることによる。

江戸時代には各藩の弓術家により本堂の軒下(長さ約120m)で、
矢を射る「通し矢」の舞台となった。その伝統に因み、
現在は毎年1月15日に最も近い日曜日に、
弓道をたしなむ新成人が振袖に袴を着け、
本堂西側の射程60mの射場で矢を射る「大的全国大会」が行われ、
一般的には「通し矢」と呼ばれている。
60mは一般の弓道競技の「遠的」の射程であり、
この大会の射法も遠的と同様である。

国宝
本堂

木造千手観音坐像(附:木造天蓋)ー
堂内中央に安置する本尊像。像高335cm。湛慶晩年の建長6年(1254年)の作

木造風神・雷神像ー
鎌倉復興期の作。堂内左右端に安置。
風袋と太鼓をそれぞれ持った風神・雷神像の姿をユーモラスに表したこれらの像は、
俵屋宗達の『風神雷神図屏風』のモデルになったともいわれる。

木造二十八部衆立像ー
鎌倉復興期の作。
千体千手観音像の手前に横一列に立つ(28躯のうち四天王像4躯は本尊の周囲に立つ)。
二十八部衆は千手観音の眷属で、仁王、四天王のようななじみの深い尊格のほか、
婆藪仙人(ばすせんにん)、摩和羅女など、
他ではあまり見かけない像も含む。
痩せ衰えた老人の姿をリアルに表した婆藪仙人像は鎌倉彫刻の代表作として知られている。

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【大阪城】
http://ja.wikipedia.org/wiki/大阪城

大坂城(大阪城、古くはおおざかじょう・一般にはおおさかじょうと読む)は、
摂津国東成郡大坂の地にあった安土桃山時代から江戸時代の城である。
別称は、金城あるいは錦城で、
大坂が近代に大阪と表記するように改まったために、
現在は大阪城と書くことも多い。
豊臣政権の本城であったが、
大坂夏の陣で焼失し豊臣氏が滅亡した後再建され徳川幕府の西日本支配の拠点となった。
したがって、しばしば大阪の人がいう『太閤さん(豊臣秀吉)が建てた城』
というのは正確には間違いである。

城址は現在の大阪市中央区の大阪城公園。
名古屋城、熊本城と共に日本三名城の一つ。

立地
大坂城は、上町台地の北端に位置する。
かつてこの地のすぐ北の台地下には淀川の本流が流れる天然の要害であり、
またこの淀川を上ると京都に繋がる交通の要衝でもあった。

台地北端に立地する大坂城では、
北・東・西の3方は台地上にある本丸からみて低地になっている。
北の台地下には淀川とその支流が流れており、
天然の堀の機能を果たすとともに、
城内の堀へと水を引き込むのに利用された。

構造
大坂城は、豊臣氏が築城した当初の城と、
その落城後に徳川氏が再建した城とで縄張や構造が変更されている。
現在地表から見ることができる縄張はすべて、
江戸時代のものである。
ただし、堀の位置、
門の位置などは秀吉時代と基本的に大きな違いはないとされている。

縄張は輪郭式平城であり、
本丸を中心に大規模な郭を同心円状に連ね、
間に内堀と外堀を配する。
秀吉は大坂の市街から天守がよく見えるよう天守の位置、
街路などを工夫したとも伝えられている。

台地の北端を造成して築城した大坂城の防衛上の弱点は大軍を展開できる台地続きの南側で、
西方から南方を囲むように惣堀がめぐらされ、
冬の陣直前には玉造門の南方に真田信繁により半月形の出城「真田丸」が構築された。
果たして冬の陣はこの方面から攻めかかる徳川方と篭城の豊臣方との間で激戦となった。

天守
大坂城の天守は現在までに三度造営されているが、
いずれも外観、位置等が異なる。以下に記した。

初代天守(豊臣大坂城)
大坂城のものと見られている「本丸図」などでは、
山里曲輪とを隔てる本丸の詰の石垣沿い、
本丸の北東隅に造られたと考えられている。

天守台いっぱいには建てられず、
若松城天守のように余地を残して天守曲輪を持っていたと考えられているが、諸説あり。

天守は、複合式若しくは連結式望楼型5重6階地下2階であったと考えられており、
外観は、黒漆塗りの下見板張りで、
漆喰壁部分も灰色の暗色を用いて、金具や、瓦(金箔瓦)などに
施された金を目立たせたと考えられている。
一説には、壁板に金の彫刻を施していたというものもある。

立説には、大坂夏の陣図屏風(黒田屏風)、
大坂冬の陣図屏風、大坂城図屏風などが参考にされている場合が多い。
特に大坂夏の陣図と冬の陣図では天守の姿が大きく異なっているため、
夏の陣のものは再建または改築されたものであるといい、
それに沿った復元案も研究者などから出されている。
(三浦正幸説など)復元案の有名な説としては、
宮上茂隆説で、
大阪城天守閣内の豊臣大坂城再現模型のモデルにもなっている。

二代天守(徳川大坂城)
徳川氏が再建した大坂城の天守は、
現在見られる復興天守(大阪城天守閣)の位置とほぼ同じである。
江戸城の本丸・初代天守の配置関係と同配置に建てられたと見られている。
天守台は大天守台の南に小天守台を設けているが小天守は造られずに、
天守曲輪のような状態であった。
天守へは、本丸御殿からの二階廊下が現在の外接エレベータの位置に架けられていた。
建物は独立式層塔型5重5階地下1階で、
江戸城天守(初期)を細身にしたような外観で、
白漆喰塗籠の壁面であったとみられている。
最上重屋根は銅瓦(銅板で造られた本瓦型の金属瓦)葺で、
以下は本瓦葺であったという。
高さは天守台を含めて58.32mあったとみられている。

復興天守
現在、大坂城(大阪城)を象徴し、
大阪市の象徴となっているのが、大阪城天守閣(右写真)である。
1928年に当時の大阪市長關一によって再建が提唱され、
1931年に竣工した。昭和以降、各地で建てられた復興天守の第一号である。

建物は、徳川大坂城の天守台石垣に新たに鉄筋鉄骨コンクリートで基礎をした上に、
鉄筋鉄骨コンクリート造にサスペンション工法を用いて建てられた。
高さは54.8m(天守台・鯱を含む)。
天守閣の中は大阪城天守閣という博物館になっている。

外観は、絵図(大坂夏の陣図屏風)を基に新たに設計されたものである。
大坂城の天守は、豊臣大坂城と徳川大坂城のそれぞれで
建っていた場所も外観もまったく異なるが、
復興天守閣では初層から4層までは徳川時代風の白漆喰壁とした一方、
5層目は豊臣時代風に黒漆に金箔で虎や鶴(絵図では白鷺)の絵を描いている。
この折衷に対しては諸々議論があり、
豊臣時代の形式に統一するべきとする意見もある。

1995年から1997年にかけて、
平成の大改修が行われた。
この時、建物全体に改修の手が加えられ、
構造は阪神・淡路大震災級の揺れにも耐えられるように補強され、
外観は壁の塗り替え、
傷んだ屋根瓦の取り替えや鯱・鬼瓦の金箔の押し直しが行われた。
また、身体障害者や高齢者、
団体観光客向けにエレベーターが小天守台西側(御殿二階廊下跡)に取り付けられた。

豊臣時代・徳川時代の天守がいずれも30数年で焼失したのに比べ、
昭和の天守は建設後70年を超え、
最も長命の天守になった。
1997年、国の登録有形文化財に登録されている。

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